セ~フ!2011年02月01日 17:23

今朝頼んどいたのにツレアイが寒中見舞い葉書出し忘れ。
気がついてポストへダッシュ、ぎりぎり5分前にセーフ!
こんな日もある、こんな日も。ゼーハー。

「ほづみと保奈美」2011年02月01日 22:19

NHK大河の「江(ごう)」を楽しく見ている。
上野樹里ちゃんも宮沢りえちゃんも好き♪
しかも、このドラマ十年の沈黙を破っての鈴木保奈美の登場である。
なかなかどうして、ナレーションも上手いよ。
ただどうしても「鈴木保奈美」と言おうとして
つい「郷田ほづみ」
と言ってしまう私。(笑)
「怪物ランド」の呪い
あー、「ウソップランド」また見たいな。

400本目の赤道2011年02月05日 00:48

某所でも同じようなことを書いていて、それが400本目になる。
別に数えていたわけでもないが、昨日誤字脱字を(多いんだこれが)洗い直していたら、ごくごく最初のところまで間違いがあり、トホホ、修正していたら399本書いていたことに気がついた。
400本目。一番最初は2009/1月「オバマさんのとなりのとなり」という、米初の黒人大統領誕生の硬派ネタだったが、アメリカといい日本といい、その後困難だらけで、世の中は思うようにはいかないのは同じである。
気負っても仕方ないのでいつもの馬鹿バナシ。

「かゆいかゆい」にも書いたが、兄貴はいいように妹をからかってお育て遊ばした。
で、地球儀である。
「おにいちゃん、この赤い線なぁに?」
「ん、赤道」
「なんで海は水色なのにこの線は赤いの?」
「それはな…」
兄貴とっさに頭の中で神経回路が「悪」になる。
「おまえ『赤銅色』って言葉知ってたよな。」
「うん。(漢字には小さいころものすごく強かった)」
「ここはな、地球の真ん中を取り巻く銅の『わっか』だ。」
「わっか?」
「地球の真ん中を示すために作ったんだ。銅で出来ていて、幅は10メートルある。」
「でもそうしたらお船は通れないよ。」
「だからこの、マラッカ海峡やエクアドルの沖は「鬨橋(かちどきばし、と言う跳ね橋が東京にはあります)」みたいに貨物船やタンカーを通すためにバンザイをする。」
「へーえ、地球でバンザイ。」
「地球規模だからでかい。世界七不思議のひとつだ、おぼえとけ。」
「うん!」
この○ソッタレ兄貴~~~ッッッ!!!

ええ、私が世界地理で在学中ずっとトップだったのは、「地球っておもしろい」って好奇心を与えてくれた兄貴のおかげです。
でも適当なところで訂正してくれないから、ものすごくハズカシイ年齢まで「バンザイ」を信じてたじゃないか!
思わぬところで大恥かきそうになって、やっと兄貴の仕掛けた地雷に気がついたんだわさ。


ごく軽い気持ちで始めたので、2年間で400本というハイピッチで書くとは思わなかった。
始まる時期がこちらより早いので、400本目には何を書くのか楽しみである。

青江三奈・ピンボール2011年02月07日 04:50

(2005年の文章ですが、思い入れがあるのでちょっと手を加えて載せてみました。「ピンボール」をご存じない方は村上春樹さんの「1973年のピンボール」をお読み下さい。)
     
青江三奈が好きだった。
初めて見たのは絶対「紅白歌合戦」だわ、それ以外大人の歌謡番組を見せてもらった 覚えがないから。
髪を金髪に染めて、真っ赤なルージュをひいて、青いスパンコールのタイトなロングドレス着て、なんかくねっとした美しい爬虫類のようなカンジ。ハスキーボイスで、歌っていたのは「恍惚のブルース」だったか「伊勢佐木町ブルース」 だったか、とにかくブルースだった。
大切に持っていたベストCDが引っ越しでどっかいっちゃって、残念無念である。
    
彼女からは「戦後」の匂いがした。
淡谷のり子こそ「ブルースの女王」なのだろう けれども。
淡谷さんが戦争中どんなに国防婦人会に吊し上げくっても電気パーマもお化粧も止めなかったといっても、でも、戦争に負けて、アメリカに占領されて、オキュパイト・ジャパンを経験して初めて出現したのだ、青江三奈という女の人は。
    
若いころ、徹夜明けで出版社に原稿を届けて、よくピンボールを打ちに歌舞伎町に行った。
普通1ゲーム3セットで200円のところを、中古のマシンばかりを集めて50円で打たせてくれる、ピンボール台だけの店が、隅っこにあったのだ。
そこはゲーセン専門ビルの1フロアで、それらしい装飾もけばけばしい照明もない、リノリウムの床のガランとした素っ気ない部屋で、ただずらっと並んだマシンに「絶対営業サボってる」か「仕事がないな、こいつ」 としか思えないおじさん達が黙々とフリッパーを叩いたり「ティルト」(台を揺さぶる反則スレスレの荒技・やりすぎるとマシンが止まる)したりしていた。
女の私はティルトは重すぎて出来ないが、フリッパー・キープ&パスが得意で、上手くいくと六千万点台くらい叩き出せた。
   
ピンボール自体せいぜい1950年代~70年代始めが盛りの、寿命の短いゲームだった からかもしれないが、それはまるで「砂漠の中のジュークボックス」のように、蜃気楼のように、そこにあった。
空気は乾いていて、真昼の歌舞伎町もまだガランとした街で (昼間から風俗でにぎわい始めるのは、もうすこし後のことである)、ほんの少し前の景気の悪さの匂いを、まるで残飯の残り香のように漂わせていた。
くすんだ青春時代の終わりだった。
新大久保寄りの安~い台湾料理屋の、そのなかでも一番安い定食を食べて、(懐が暖かいときにはも少し手前のタイ料理屋に行った。 一番安い定食を食べに。)
「さぁて、ひと打ちして帰るか~」と徹夜明けの赤い目をこすりこすり歩いていた、その時である。
       
「本日・青江三奈ショウ!」
      
それは歌舞伎町のどん詰まり、雑居ビルの最上階にあるキャバレーの立て看板。
そういえば子供の頃は紅白の常連だった青江三奈は、いつのまにかテレビで見なくなっていた。
ドサまわりしていたのか。
マジックで書いてある「ショウは3回、夜7時~」。
貼ってある少し古びたカンジの写真は赤い背景に金髪、白い肌、ルージュ、そして、ああ、やっぱり青いスパンコールの、肩のひらいたドレス。
観たい、聴きたい。
青江三奈の歌を。
      
十分くらいそこにつっ立っていただろうか。
徹夜明けで7時まで体が保たない。 マクドかどこかで仮眠をとろうか。
でも所持金は? 4千円ちょっとだ。
キャバレーって幾らぐらいするのだろう、少なくとも4千円じゃ無理だ。
今から上がっていって、掃除か何かの手伝いでもさせてもらったら、舞台のすそから 見せてくれないだろうか。
たぶんけんもほろろに断られるだろう。
ボサボサ髪、すっぴんにヨレヨレの服じゃ1日ホステスというわけにもいくまい。
そこまで考えに考えて、あきらめた。
キャバレーの敷居をまたげる身分じゃないのだ、私は。
    
しかし、(著作権の問題があるから書けないけれど)「恍惚のブルース」という曲はすごい。
「ムード歌謡」、その中でも「お色気歌謡曲」なんてくくられてしまいそうだけど、カラオケ行ったら歌詞だけでも見て下さい。
しっかり恋をして、しっかり別れた人にしか分らない境地だわー、これは。
その点わたしは、こと恋愛に関しちゃ満身創痍、もうあちこちガタガタのボロボロなので、泣けるね、なんの自慢にもならんけど。    
(思い出すのは『あんときゃバカだったなあ』ってことばかりで、人のお手本にもならん)
     
「惚れる」というのは「ほうける」、つまり「阿呆になる」というのが語源だとどこかで 聞いた。
せちがらいこの世の中、自分から進んで阿呆になれることなんか、いったい 幾つあるだろう。 
恋は「世間の自分」という鎧のすきまからさし出した細い釣り竿にかかった大物である。 
私たちは、恋によって初めて堅い鎧を脱ぎ、自分自身をさらすことが出来るのだから。
相手に対して、そして何より自分自身に対して。
    
コインをマシンに放り込み、ボールをセットして思い切りよくスプリングを引いたら、あとはバウンド、バウンド、フリッパー右、左、右、バウンド、ジャックポットに叩き 込んで、左、右、フリパーパス、レーン通過!
ピンボールのように、恋は走り出す。
    
青江三奈という人は本当にすごい人だった。
あの金髪は、青いスパンコールは、白い肌は、赤いルージュは、いま思えば「自分」というものを写し出す「恋の鏡」だったのだ。
    
「女の命は恋だから」「死ぬほど楽しい夢をみた」「あとはおぼろ」と青江三奈は 歌う、ハスキーな声で。
「あとはおぼろ」な余生をびっくりするほどシリアスに日々生きている私は、
「もしかして本当の私は別の世界で恋をしていて、今いるこの『私』は、その私が見ている夢の中の『私というキャラクター』なのではないかしらん」
と、中国の故事「胡蝶の夢」のようなことを考えたりしている。

乳母車2011年02月08日 14:28


昔の「乳母車」は対面式だった。
四輪で、電車にもバスにも乗れず、乳飲み子の頃はおんぶだっこ出来たが、やや大きくなるとバスにも電車にも乗れない。
母親の行動範囲は狭まり、大変な苦労をした。
折りたたみ式ベビーカーの発明は画期的だった
折りたためば電車にも乗れる。すごい機動力である。しかし当時は構造上の問題で、赤ん坊は先頭を向くしか無かった。
現在は改良されて対面式のものがある。
友人がこれ購入したとき、「ああ、賢い買い物をしたな。」と思った。
赤ん坊にとっては、母親の顔を見ず、ただひとりで外界を運ばれていくのはどんなに不安だろう。
ただ、幼児の環境適応力というのはすごいものであるから、それが当たり前になってしまっているのだが、深層心理はどうだろう。
と、いうのは「まなざしの人間関係」(講談社現代新書)という本を昔読んだからで、母と子のまなざしというのはものすごい力を後々もたらすと知っているからである。
ひとりきりで外界を運ばれてゆくのがあたりまえの世代が成年になってから、世間の人間関係にひずみを持つ人が増え、異常犯罪・凶悪犯罪も増えたと思うのは私だけだろうか。
ともあれ、母親の笑顔と後ろに流れてゆく風景を見ながら乳幼児期を過ごせた最後の世代だというのは、私にとって宝物である。(おかげですごいマザコン)

旅行記・その12011年02月14日 11:55

はい、私はどこにいるのでしょう。
(写真はクリックすると例のごとく大きくなります)

福岡は中洲川端商店街、3泊4日のひとり旅でゴザイマス。


ついたとたん強烈な肩こりで、はい、整骨院。トホホ、ディパックがいつもより重かったせい。しかし、30分1500円は安いぞ、東京の半額だ~。


目的は「萩尾望都原画展」福岡アジア美術館。


昨年東京では、狭い、日にちも限られたデパート展で押すな押すなの混雑っぷり。
気の済むまで観られなかったので、最終、ロング期間の広い会場で(作品は東京より出品点数多い)思いっきり鑑賞しようではないか、と。
ヘソクリはたきました、ハイ(笑)。
友人知人との旅行は何度もあるけれど、ひとりで2泊以上というのは18の時、三宅島の別荘でひとり半月過ごして以来かなー。
インターネットで飛行機の手配をしたり、ネット特割のホテルをとったり、パソコンのお世話になった旅でした。
しかし、旅行中は重くてパソコン持って行けな~い。
ホテルでパソコン無しの生活というのを味わうのは久しぶりで、ちょっと新鮮、かなり禁断症状(笑)。
TVはニュース天気予報とドキュメントと映画以外ふだんあんまり見ない(「NHK大河の「江」は見てるゾ♪)私ですが、TVしか見るモノない!
ローカル局のワイドショー見てたら、「突撃・隣の晩ごはん」やってました、ローカル版の。
農村編で、屋敷は広いは食卓は自家製野菜でてんこ盛りだは。
でも、農村だから、大しゃもじ持って走る距離が遠い、街灯ナイから真っ暗。
キー局にはない苦労を見たのでした。

さて、その2に続く。



緊急連絡2011年02月14日 12:39

の電話が入ったのは、「旅行記・その1」をアップした直後である。
夫・ドッコイの母が倒れた。
救急車で運ばれる最中に伯母宅に連絡が行ったということで、今治療室におり、何の症状がでているのか分からないという。
(たぶん、自力で119できるくらいだからたいしたことはないと信じたいのだが、我が家にかけなかったのはさほど心配ないと思ったからだろうか、かけられなかたっのだろうか)
私たちの結婚前に脳の血管をやられており、左手が不自由、心筋症も持っているので油断がならない体ではあったのだが。
今現在病院に駆けつけた伯母より連絡待ちしている。
どうか,たいしたことなく笑って帰宅できますように。

「緊急連絡」顛末記2011年02月16日 20:43

大雪が降った。
ドッコイの故郷は長野の真ん中で、周囲を高い山々に囲まれて、寒いが雪は降らない。
天然フリーズドライ、高野豆腐と寒天の産地である。小学生はスキーではなくスケートを習う。
が、ひと冬に2~3度降ると、人の住むところとしては本州一の寒さであるからして凍って溶けず大騒ぎである。
義母が倒れたのはよりにもよって「その日」であった。

ドッコイは熱こそ出ないが偏頭痛で、早退して鎮痛薬を飲もうとしていた。
連絡が入り、車の運転で薬は飲めず、大雪の中長野までなるべく早く車を飛ばさなければならない。
私は、といえば不整脈の発作で、薬倍飲みでなんとかもっている有様である。

吹き付けるボタ雪は車窓の視界をさえぎり、中央高速の車線変更線が見えない。前をゆく車のテールランプだけが頼りである。
パウダースノーに変わった頃三台の除雪車の横列のしっぽにあたり、これは作業のためゆっくり運転なので、後続は大名行列状態。
いつもの倍かかって、とうに夜半を過ぎた頃家にたどり着いたが、駐車場が積雪で、降り続く中、明朝早くに雪かきして病院に行くには心もとない。
結局私がネットで調べておいたビジネスホテルに「ふたり六千円也」で素泊まりすることになった。
ホテルの有り難いのは駐車場の雪かきを夜明けに職員さんがしてくれることで、やはり家の駐車場に止めなくて「正解」だった。(左から3番目がウチの車)

公道は明け方に市が除雪してくれていたので、朝、すんなり病院にむかう。
お義母さんはもう起きていた。
左手が不自由なのに、右手の甲に点滴を刺されて不自由そうである。
早くに来てくれた叔母と、話をするが、医師の話を聞けるのは、午後、しかも何時になるか分からない。
ここまでで私は、泊まり込みが一泊では済まないかもしれないと用意した心臓薬をすでに3倍飲みしている。慣れぬ雪の中を転び転び歩き、息が続かないのだ。
結局昼食までいて限界が来て、先に電車で帰ることになった。
駅まで車で送ってくれた伯母と、冬だけでも横浜に建てる家に迎える準備があることなど話す。
聞けば、入浴も(義父が結露を嫌って浴室を母屋から離して建てており、しかも浴槽もすのこも高くて危険なので)彼女に週一回、入浴施設に連れて行ってもらっていること、寝室が2階なので階段が危険なこと、買い物も突然運転役の義父が亡くなり、親戚まかせとのこと。
思っていたよりも状況ははるかに悪い。

昼過ぎの電車で帰宅、ドッコイの連絡により脳血栓ではないことを知り、ホッとする。
おそらくは虚血性心筋症か、あるいは外科的な問題か、いずれにしても翌日退院になったという。
仕事のあるドッコイは戻るので、親戚に頼み、家まで送り届けてもらうことになるが、当分は週末、少なくとも二週に一度は通わなければならないだろう。
ドッコイは3月にまたカンボジア出張を控えているので、それまでになんとか、少しでも元気になってもらわなければ。

戦前朝鮮半島で生まれ、少女時代引き上げを体験して以来ずっと長野で今日(こんにち)まで暮らしてきた人である。
土地を離れてはそれまでの生活も人間関係も全て失ってしまう。
義母を長野から離すわけには(たとえ冬の「殺人的な」寒さの間だけは横浜にステイしてもらうとしても)いかない。

幼い頃「死人(しびと)は呼ぶよ。」と私にささやいた、心ない大人は誰だったか。
呼ばせてなるものか、大切な義母である。

しかしどうして生活エピソード多いのかな、私たち。

リビアの金曜日2011年02月17日 22:00

世界で唯一、「一色きり、緑色」の国旗を持つ国で長年おもしろいなあと思ってきた。
が、国旗はともかく国政の方が問題で長年「カダフィ大佐」という独裁者の強烈な軍事政権が続いてきた。
(ということはリビアには少将とか元帥はいないのか、という素朴なギモンがあるのだが、「議長じゃなくて書記長が国家元首」という国もあるのだからして。
イスラム圏に巻き起こった一連の民主化デモ、この、世界で一番怖いといわれる独裁政権下でついに起きた。
明日、金曜礼拝の後群衆がどう動くかが問題だろう。
イスラム世界はどちらに向かうのか、原理主義は、ナショナリズムは、独裁政権の国々はどこまでその勢力を転換してゆくのか、気になる。

旅行記・その22011年02月18日 10:51


博多物価安~い!
「前髪カットのみ百円」
である。ワン・コインの大きさが違う。

さて、商店街を抜けて、とにかく朝イチと閉館前はアジア美術館の原画展へ。

人の入り3割くらい、東京でやったときの「なるべく早く進んで下さい状態」がウソのよう。
会場が広く、東京よりも何十点か出品作も多く、ビデオコーナーもあり、ソファもあり。
ソファのある「半神」16ページを、休みながら計十回以上観る。ホワイト修正がほとんどないのにビックリ、というか、萩尾先生の作品には、効果以外ホワイトがほとんど入っていない。
これはデビュー作、二十歳の時の「ルルとミミ」からそうで、新人時代こんなに少ない人も珍しい。
かと思うと「ビアンカ」の、少女が森で踊るシーンは自身が納得いかず17回も描いていたりする。

天才だと思うし、天才が努力をしたらどんなに凄いかが、マイペースで回る目の前に繰り広げられてゆく。
やっぱり九州に来て正解だった。

福岡には高2の時修学旅行できている。(九州一周だった)
そのとき食べた水炊き(鳥鍋)の味が忘れられず、商店街唯一の専門店へ。
(店の名をもらったマッチで覚えようとしたのだが、うかつにも長野の仏壇に置いてきてしまった。まーたった一軒の店なので行けば分かるが)


そして最終日の朝、私はルール違反をした。
場内撮影禁止は美術展の基本である。が。
忠実に再現された仕事机を、マフラーの陰からトイカメラ(3×3×5センチくらいで、もちろんフラッシュなんかついていない)で、撮ったのだ。
ものすごいピンボケだが。

指のリハビリが上手くいかず、日に日に思うように引けなくなってくる線に、私は絶望感を抱き始めていた。
脳炎、交通事故、刃物の事故でペンを持つ指の背の腱を切断、と、私は利き腕を何度もつぶしている。
特に脳炎による痙攣は、酷い。
この、意のままにならない腕と弱っていく目で、この先描き続けるべきか、リハビリをあきらめるべきか。

墨汁の横には、指のテーピング用のテープがごっそり積んであった。
描き続けて40年、萩尾先生も、指をテーピングで固めないと線が引けない、ということは以前から知っていた。
が、実際に見るテープの山は、もっと切実に、私に大切なことを訴えかけてきた。

やっぱり、まだ「描く」ということをあきらめるわけにはいかない。

「神様の机」だった。
ここから萩尾望都という人は、これだけの素晴らしい世界を織りなしているのだ。
「そろそろ漫画家をやめたら」と言うご両親に
「なぜ、たいがいのことを犠牲にしてでも漫画を描くことをやめることが出来ないか言葉では説明出来なかった。」
と、ハードカバー版の「メッシュ」の後書きに書いてある。
漫画を「描きたい」という衝動と、完成させるまでの長い手間の道のりは、なぜせねばならないのか理屈では割り切れない。
新人漫画家たちの実質時給は200円位のもんである。

まだ、自分の道を探したい。

そう心を決めて、私は福岡を後にした。
新幹線の駅で舞い始めた風花は、関門トンネルを
越え山口に入ると水墨画の世界のような大雪となった。
白い紙と黒い墨汁があれば、多分私は(上手い下手は別として)何でも描けるだろう。

あきらめない。
そう気付いた旅だった。