川の畔に住む人は2013年01月10日 03:36

養母(明治40年生まれ)の介護で横浜に住んでいたとき、丘の上にある日本画家の養母宅はアトリエばかり広く同居が無理なので、丘を下った川沿いのアパートに暮らしていた。
帷子川(かたびらがわ)という。風雅な名前である。
もっとも日本人がまだ「公害」というものに危機感を持っていなかった頃は、この川、上流の捺染工場(当時横浜は世界のスカーフの90%を捺染していた。グッチもエルメスも、横浜で染めて、本国で縁をかがってメイドインフランス一丁上がりである。)のピンクや黄色の廃液で染まっていた。
当時横浜の「ヤ」のつく若い衆は、
「オゥ、簀(す)巻きにして川に浮かべちゃろか」ではなく
「オゥ、簀巻きにして赤やピンクに染めちゃろかい」
とスゴんだ、という噂もあった。
子供の頃から養母の家へ通い慣れた川の畔である。
私たちが移り住んだ頃はすっかりきれいになって、鮎を釣っている人がいた。
尋ねたら「食べるには適さないが、活かして置いて友釣りのおとりに使うのだ。」という。

「川の畔に引っ越しました。」
と養母に告げると、
「それはふたりとも前世でいいことをしたんじゃろう。」
とたいそう喜んだ。何かと思ったら、川のほとりに住む人は、洗濯でジャブジャブ盥で洗わなくても、流れに沿って、着物の襟のところに大きな石を載せておけば自然と水流できれいになり、手間が省ける、というものであった。
多分奈良・平安にまで遡る日本人の知恵である。
昔の洗濯は重労働であった。
それからの解放を「前世でいいことをした」に置き換え、来世は川の畔に暮らせるように、現世で徳を積む。
「なるほどなあ」と夫・ドッコイ氏と顔を合わせたものである。

明治40年生まれの養母には、何十代もの先人の知恵が詰まっていた。
もしも文明が衰亡して、原始時代に戻ってしまったら、ドッコイ氏と私は川の畔に住もうと思う。