水木しげる先生が一兵卒戦記としての戦記をかきつづけたわけ2015年12月02日 04:36

中国大陸での教科書掲載云々を延々やる前に、氏の「総員玉砕せよ」を中1の副読本にしてください。
国家観変わります。

水木しげる先生逝く2015年11月30日 20:16

しかし水木先生はイラストのような「生死観」の持ち主だったようなので、悲しみすぎることはない。
むしろ友人の言葉
「水木先生が亡くなる、という事は「美化せずに戦争体験を語る人」がまた一人減った、という事でもあるのだった。
ヘンテコな歴史認識やキテレツな民族意識をお持ちの皆さんは、まともに水木しげるを読んでいないのだと思うので、この機会にゼヒお読みなさい、と強く強く勧める。」
のほうが心に重い。
いや全くその通り。
南京大虐殺を歴史の教科書に載せる以前の問題として「総員玉砕せよ」を中1の副読本にしなさい!

ブヨブヨの「安倍談話」2015年08月14日 20:16

戦後50年の「村山談話」1300文字(「村山談話 全文」でググるとでてきます。
今日の「安倍談話」、言ってることは村山談話の丸パクリなんだけれど、ブヨブヨ水ぶくれして3000文字。
長く語れば良いってもんじゃない。

白い歯を見せて笑うアメリカ兵2015年08月13日 18:08

一般人を巻き込む空爆も卑怯だが「機銃掃射で逃げ惑う人たちを狙い撃ちしていた」アメリカ兵は、もはや「ジャップをどれだけ殺せるか、ゲーム感覚」だったんじゃないかな。
子供の時ぎりぎり命拾いした藤子不二雄Aさんが「ガラス窓越しに笑う白い歯」を見たと言っていた。

なだいなだ さん2015年04月02日 22:00

なだいなだ さんの評論や哲学は平易な言葉で書かれていてわかりやすい。
と、おもったら、この人何と医者にして評論家にしながら
「芥川賞落選6回(つまり6回ノミネート)」というレコードをもっている。
「娘の学校」とか「片目の哲学」「ぼくだけのパリ」なんて何十回繰り返し読んだかな。

> 平和のグロテスクな顔を見ていると、平和も若返って欲しいと想う。
「どんな平和でもいいから、平和を」
ではなくて、平和は飽くまでも魅力的でなければ、いけない。
平和が魅力的でなくてどうして、平和のために命をかけてもいいと思う。
平和論者は念仏のように平和を唱えるのではなく、平和を若返らせる努力を、いつまでも続けて行かなければならないのである。(「娘の学校同窓会」より)

戦争は一度ついたら燃え尽きることを知らぬ火だ。
平和は平和の中にある。(萩尾望都)

「陸にあがった海軍」展を観に2015年03月22日 03:53

神奈川歴史博物館へ行って来ました。
太平洋戦争末期、もうどうしようもなくて、
とにかく空襲避けるため
横浜・日吉の慶應キャンパス内に
海軍総司令部が地下壕掘って
そこで活動していたというモノ。
そこから出て来た歴史的遺物の数々
戦争って本当にクダラナイ。
ヒットラーも伯林の地下壕で
戦争末期を過ごし、自殺している。
「戦力ノチガイニ非ズ
精神力ノチガイ也」
なんて書いた手帖の反面は
あらら、可愛い犬のラクガキだ。
こっちのほうが文化的だぞ。

開館記念日で入場無料、
屋上の青銅ドームも
特別公開でした。
(中何にもないけど)
細工物のイルカが圧巻でした
でもイルカってウロコあるか(?・笑)

金はないけど
文化的興味はなくならないふたり。
これからどうなるのか…

(ドッコイ氏は今日
ヒョイ置き忘れで
結婚指輪が行方不明…苦笑)

東京大空襲七十年2015年03月10日 22:58

七十年前の今月今日、母・芳子さんは焼け出された。
次の日腸捻転で小さな妹が死んだ。
本所のおじさんは行方不明。
五月の大空襲にもにも焼け出されて、住むところが無く「石炭小屋」に住んだ。
ほんの七十年前の話。

「名誉の戦死」と「件(くだん)」と「赤マント」2015年01月12日 01:25

夫・ドッコイ氏はとんでもなく物知りである。
いろんな事を知っていて、私は
「成長し続ける百科事典を無料で買ったのだ」
と思うことにしている。

しっか~し。
意外な盲点。
純朴な長野県諏訪地方で
「天皇陛下大好き♪日の丸大好き♪君が代大好き♪」
なお父さんに育てられたので、この人(思うところはアンチお父さんらしいが)
「昨日生れた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死~♪」(「湖畔の宿」の替え歌)
どころか「予言妖怪・件(くだん)の噂」も「怪人『赤マント』」の時速も知らないのであった。

「昨日生れた豚の子が
蜂に刺されて名誉の戦死
豚の遺骨はいつかえる
4月8日の(これは異説あり)夜かえる
豚の母さん悲しかろ

昨日生れた蜂の子が
豚に踏まれて名誉の戦死
蜂の遺骨はいつかえる
4月8日の夜かえる
蜂の母さん悲しかろ」

とか

「牛から産まれて人間の顔をした妖怪「件・くだん)」が、
太平洋戦争末期、どこそこで産まれた、
『まもなく戦争は終わるだろう』
とだけ言って死んだ。
どちらが勝つとも負けるとも言わなかった」

とか

戦争末期、間諜対策として軍部が
「怪人赤マントって知っているか?
異人のように高い背で、黒マントの裏は真っ赤で、日本人をさらうそうだ…」
とわざと聞こえるように話し、各駅のトイレでで係が待ち構えていたら、
なんと「夜行列車と同じスピード」でウワサが広がっていた、というもの。

意外な盲点であった。

みなさん、知って下さい。
知っておいて損はありませんので。


このエッセイは「UFO文學14年度冬季号」に掲載しますので、引用・盗作を固く禁じます。
発覚した場合は提訴します。

自由平等・平和の机2012年12月28日 21:40

実家に、濃いニス塗りの古い机がある。
よく言えばアンティークだが、祖父の手作りなので無骨でもある。
祖母が身ごもった時に祖父が作り、成長して父が使い、兄が使い、兄が独立してまた父が使い、父亡き後は母が使っていた。これを、今回の引っ越しの時にもらいうけた。82年物である。

この机にはひとつの秘密がある。

戦前・戦中、「平和主義者」で「労働組合活動家」として特高警察にマークされていた祖父母が、自分たちがいつ捕まってもいいように、引き出しを全部抜いた裏板に「詩」を書いたのだ。
机を継いだ者だけがそれを読める。

母が、懐中電灯で照らして、書き写してくれた。

最初の1行だけは私も知っている。
「嵐は強き樹を作る」
である。それからが、82年の歳月でかすれて良く読めないのだが、
「貧苦の暴……れても、支配階級……
 闘志は益々先鋭化し、最後の勝利……
 確信は……堅固となり、自由と平等……
 闘争の余暇を利して、胎内にある愛児のために
 吾が同志のもっとも良き後継者として
 来るべき新社会建設をこの机上より
 創造の一歩を発せし為に記す
  1930年3月20日 (祖父母の署名)」

父の名は「確」であり兄は「等」私は「信子」、みんなこの机から名付けられた。
もしも私に子供が授っていたなら、やはり一字もらっていたかもしれない。

夜と霧は消えない(ニュースより)2012年10月23日 23:27

「最高齢のアウシュビッツ生還者、108歳で死去」ロイター - 10月23日 14:10

[ワルシャワ 22日 ロイター] 第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺が行われたポーランドのアウシュビッツ強制収容所の元収容者で、世界最高齢の生存者とされていたポーランド人、アントニ・ドブロボルスキ氏が21日、108歳で死去した。アウシュビッツ博物館が明らかにした。
教師だったドブロボルスキ氏は1942年6月に拘束され、アウシュビッツ強制収容所に送られた。後に移送されたザクセンハウゼン強制収容所で終戦を迎え、戦後は地元の高校に戻って、長年にわたり校長を務めた。
ドブロボルスキ氏はユダヤ人ではなかったが、禁じられていた教員組織に所属して小学校でポーランドの歴史を教え、ナチスの意向に従わなかったとして拘束された。
第二次大戦中、ナチス・ドイツはアウシュビッツ強制収容所で150万人(他の収容所などと合わせて600万人)を虐殺したと言われている。


少女時代、『夜と霧』(ヴィクトール・エミール・フランクル(1905年3月26日 - 1997年9月2日)オーストリアの精神科医、心理学者・著)を読んで以来35年以上、温めていたプロットがあって、「ホロコースト」について調べ続けていた。
「戦場のピアニスト(DVD)」など、良い資料は揃ったが、描くための手を決定的に傷めてしまい、宙ぶらりんの作品のひとつとして、「カムバックしたら必ず描く袋」の中にいる。
座り芝居の演目として2度だけ演じた「苺の香りのするせっけん」の母体である。
ゆえに、このニュースは重かった。

戦争の傷は、「忘れてしまう、しようとする、知らない派」と、「絶対全記録派」に別れており(こちらがはるかに少数派であるのは言うまでもない)「中間層が薄い」のは何も我が国に限ったことではない。
(確かフランスだったと思うが、学者が「アウシュビッツはでっちあげである」という極右の論文を書いて、問題になったのはもう20年以上昔のことだったか。)
「国家『戦略』大臣」などというアホな、無神経な名前の役職をおっ立てて上げてしまうくらい、今の日本全体の感覚は、戦争に対して鈍すぎる。
せめて、この文章を読んだあなたは、心の棚の中に、この事実をコトンととり置いていて欲しい。
真実は「当事者の数」だけある。が、事実は「決定的にひとつ」しかないのだ。