「明治さいころキャラメル」99年の歴史に幕2016年05月11日 00:30

昔馴染んだお菓子が生産停止になるのはさびしい。
しかもクリームキャラメルとヨーグルトキャラメルも。これで日本は「ろう紙に包んだキャラメル」がなくなることになる。
時代・・・か --- 明治「サイコロキャラメル」生産終了

心斎橋大丸2016年01月17日 21:25

心斎橋大丸が最後の見学会。
広々とした店内はまるでダンスホール。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/01/16/daimaru-shinsaibashi_n_9001572.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

跨線橋の下のおじさん2015年11月05日 00:29

そのおじさんはこざっぱりした身なりをしていた。
しかし、冬の初めの午後1時、川と遊歩道をまたぐ跨線橋の下である。
悪くはない身なりだ、ヒゲも1〜2晩伸びたふう。大きな鞄をかかえて、段ボールを敷いて、日差しの中、ぽかん、とコンクリに背をもたれて座っていた。
心ここにあらず。

「あー、新人ホームレスさんだ」
と私は直感した。
何しろその頃私は駅近辺のホームレスさんを把握し、ホカロンやらポケットテッシュやら、なんやらかんやら配って回る「ひとりボランティア」だったのだ。
町中にホームレスがあふれていた、あのころである。

「おじさん、お金あるの?」
私は訪ねた。ズバッというのにかぎるのよ、こういうことは。
「・・・…お金は・・・・ある・・・・・」
かなりいい職に着いていたのが定年離婚か何かで、ホームレス入門、といった感じだ。(ホームレス歴も長くなると「お金はない」と言うものだ)
「なんでこんなとこにいるの?駅前にいかないの?」
「駅前にいたら警官にここへくるように言われた」
しかし駅から1・5キロ、水道もトイレもない。
景観の邪魔だから体よくおっぱらわれたってわけね。
「おまわりさんの言うことを聞く人は良い人です」っていうのね。

私は毎日歩いて駅前に行っていた。
本屋巡りと画材屋と、買い物。
決して裕福ではないのでバス賃往復380円の節約のために、1日往復7キロ歩いていたのだ。
私は駆け出しの漫画家で、「描くこと」と「世界を知ること」に夢中だった。

街へ出て買い物をした。
戻るとおじさんが、傾いた日差しの中で、あいかわらずぽかんとしている。
「おじさん、貼るホカロンいる?」
「いる」
「ポケットティッシュ、いる?」
「いる」
「おにぎり、いる?シャケとたらこ」(食べ物、というのが境界線である、「めぐんでもらう」になる)
「いる」
「ペットボトルのお茶、いる?」
「いる」
「フリーサイズの毛糸の手袋、いる?」
「いる」
「毛糸の帽子、いる?」
「それはいい」
あちゃー、冬は頭暖かくしてると風邪引かないんだけどな、ま、いっか。
私は毛糸の帽子をぽんとかぶって(値札は外してもらってある、手袋も)
「じゃ、さよなら」
と歩き出した。
「・・・・・」
ありがとうの声もなかった。

そんなおじさんだった。
2〜3日たったら姿が消えていた。駅前にもいなかった。
お金が尽きるまではホテル暮らしを決めたか、郷里にすがったか。
ま、ホームレスとしては甘っちょろい消え方だった。
冬が近づくと思い出す。

上背のある、やんごとなきハンサムなおじさんだった。
しかしその「ハンサム」には「苦労知らずの一流企業」の甘さも見て取れた。

いまは、あんな、ぽかんとした顔して、全財産もって日差しの中座り込んでいる人、いない。

卵焼きは永遠に不滅です2013年12月26日 14:59

今年も多くの著名人が亡くなった。TVの特集を見ながらドッコイ氏
「巨人の川上も、相撲の大鵬も亡くなって、死んでないのは卵焼きだけだな…」
とポツリ。
「巨人・大鵬・卵焼き」世代の私たち。
はいはい、今夜は卵焼きね。

トリックオアトリート2012年10月06日 17:25

ハロウィンという.ピューリタンのお祭りは、いったいいつ頃から日本に普及したのだろう。
NHKのチャーリーブラウン(チャーリーが谷啓さんでルーシーがうつみみとりさんという豪華さ!)で見ていたが
「わたしチョコレートもらったわ!」「わたしはキャンデー!」チャーリーだけが「ぼくかりんと…」
次の家で「わたしレモンガムよ!」「わたしマシュマロ!」「ぼくかりんと…」と最後までチャーリーは「かりんと…」なのであった。ピューリタンの国アメリカでなんで「万霊節」がはやっちゃてのかワタシにゃわからん。
通っていたカトリック修道院の学校(単にミッションスクールと書かないのは公道からいきなり「ロ」の字の建物があって、その半分は修道院だったから。いまは修道院は移転して、年に東大何人というお進学校になり果ててつまらん。)
で、私達の頃は10月31日に遅くまで校舎に残っているとシスター方に
「万霊節だから早くお帰んなさい。あしたは諸聖人のための御ミサ(万聖節)だから遅刻しちゃダメよ!」
と、まー死んじゃった聖人さん達その他の「お彼岸」なのであった。
「万霊節は悪い霊魂が出てきて人間に悪さをする。」
という考え方で「トリックオアトリート」まではまだまだ遠かった。
10月31日はサッサと眠ることにしている(笑)。

昔の絵2012年05月22日 22:19

が出て来たものの、どーゆーテクニックで描いたか本人にも不明(笑)。

Jaqueline François2011年03月09日 02:06

ブログ友だちのTさんはシャンソン歌手である。
で、日記にジャクリーヌ・フランソワの「あの日のパリ」の映像画面が載って、あまりのなつかしさに泣いてしまった。
高校の頃、私はこの人のファンだったのである。
当時はFMで毎週土曜日午前中ににシャンソンの番組があって、当時としては珍しい土日休みの学校に通っていた私にとって、この番組はふだんより遅い朝の目覚めの歌番組だった。
ミレイユ・マチューもフランソワーズ・アルディーもアダモもここで知った。
ジャクリーヌ・フランソワは生粋のパリっ子で、美しい甘いアルトでパリの歌を歌っていた。
「パリの屋根の下」「パリ祭」「パリのお嬢さん」「ラ・セーヌ」…
今日本で手に入る彼女のCDは「ベスト・オブ・シャンソン」みたいな寄せ集めで、単独の物はない。
で、「Jaqueline François」で甘損で検索したら出て来たので、何枚か取り寄せることにした。
2~3週かかるというから、多分本国からの輸入盤だろう。
ちょっと先のお楽しみである。
なつかしい親戚の叔母さんに再会するような気分だ。

ギターを持った渡り鳥2011年03月08日 19:52

ところで小林旭だが。
大人気「ギターを持った渡り鳥」の第2作は「口笛が流れる港町」である。
BGMでちょっと口笛が流れるが、誰も口笛を吹かない。
波止場は5分弱出てくるが「港町」ではない。舞台は岩石ごろごろ水蒸気もうもうのの阿蘇で、しかもありえない「鉱山」をめぐる争いである。

・・・・・

タイトル先に作っちゃったのね。

う~ん、昔の映画界はスゴイ!

ベルマーク火事2011年03月05日 15:21

(たまにはでっかいのを鑑賞して心洗われて下さい)
「ベルマーク運動(ベルマークうんどう)とは、学校などの教育施設、公民館など生涯学習施設の教育環境整備の助成と、交通などでハンデのある僻地の学校や養護、盲、ろう学校などの特別支援学校に対する援助を組み合わせて行われる運動で、朝日新聞社創立80周年記念事業として1960年に始まった。
ベルの形は「国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう」との意味合いがある。」(ウィキペディアより)

昨年は「ベルマーク運動50周年」であった、が、書きそびれてしまった。
今年51年目である。

私の女子校時代、何に人気がないと言って、体育館の観覧席の掃除当番と(高くて、冬寒くて夏暑くて、汚れやすい)「ベルマーク委員」のなり手であった。
ベルマークは今よりずっと多くの商品についていて、集める生徒も面倒なら数える委員もちみちみ作業である。
ひたすら「その家のお母さんがマメか」にかかっている。

しかし! 私の在学中、一度だけこのベルマーク集めが白熱化したことがあった。
きっかけは単純で、ベルマーク委員会が、「各学年の今月のベルマーク点数」を掲示板に貼りだしたのである。
共学校の方には分かっていただきにくいだろうが、女子校生なんて、カーッ燃えやすい火の玉みたいなもんだ。(ま、外ヅラはおしとやかなところもところどころあるが。)

最初に乗ったのはお調子者の我が75回生であった。
「いい?マヨネーズはキューピー、キャラメルは森永、ガムはロッテよ!(今はもうはずれてしまったが、当時は5ミリ四方ほどの小ささで0.5点ついていた)」
翌月、我が学年が突出したグラフが掲示板に。
「やったね!」
と想う間もなく上級生がラリーをかけてくる。
あんなに、小さなベルマークに燃えた数ヶ月もなかった。

しかし、下級生がグランドピアノを買って(これもいまははずれているが)、何万点だかたたき出したのだ。
「あー、おもしろかったね。」
消火も早い火の玉ガール達は、「振り袖火事」、じゃない「ベルマーク火事」も急速に沈静化させたのであった。

なんだったんだ、あの騒ぎは(笑)。

廃船2011年03月01日 22:47

その光景を覚えている最後の世代か、私は。
今はグラスファイバー製の漁船も、昔は木造だった。
三宅島の漁港には、引き上げられた廃船が何艘か並んでいて、島の子供達はそこで遊んだ。
もちろん私も遊んだ。
港のそばには江戸時代の廃屋もあり、屋根が抜けており、黒い柱々に陽が差し込んで、美しかった。
船は、子供の体格から比べても決して大きすぎる物ではなく、これで太平洋の黒潮の流れに漕ぎ出すのかとかと思うと、少し怖かった。
あばら骨のような柱が何本も並び、それは朽ち果ててゆく恐竜の骨のようでもあった。
美しかった。
人間がまだ石油製品を手に入れる前、木造の文化は、石造の文化は、「滅び行く美しさ」を誕生したときから運命づけられていた。
「我々は美しい廃墟を持ちうるか」というのは大学に行ってから学んだことだが、21世紀の今、答えは「否」である。
私たちは、進歩しすぎた。
願わくはこの進歩を、限られた人の富の極地集中のためではなく、あまねく広く、この惑星全体の幸福のため使って欲しい。