爪を噛むのはよくないわ2012年04月06日 17:37

「爪」作詞:作曲・平岡精二

久世輝彦さん(「向田邦子との二十年」筑摩文庫)によるとこの曲は、めったに歌わない向田邦子さんがときおりラストの数節節口ずさんでいたという。

二人暮らしたアパートを
一人一人で出て行くの
すんだ事なのいまはもう
とても綺麗な夢なのよ
貴方でなくてできはしない
すてきな夢を持つことよ
もうよしなさい悪い癖
爪を噛むのは良くないわ

若かったのねお互いに
あの頃のことうそみたい
もうしばらくはこの道も
歩きたくない何となく
私のことは大丈夫よ
そんな顔してどうしたの
直しなさいね悪い癖
爪を噛むのは良くないわ

これは私が道義的ルール(なんじゃぁそりゃ!どこの国の冷やし中華じゃい!とも言えるが・笑)を破って修羅の恋人三角関係だったときの想い出。(そんなこともありましたよ・笑)
私はつい言ってしまったのだ、恋人が爪を噛む姿を見て。
「やめて、見ている方が痛いわ」と。

私も思春期のころ爪を噛むクセがあった。その後遺症で私の爪は(写楽の役者絵ほどではないが)今でも短い。
年若の恋人だった、私の踏んだ二の轍は、踏んで欲しくないぞ。(短いけれど、バランスの良い綺麗な指の人だった。もうひとりは手袋買いに苦労するような大きな長い指)
たぶん天下分け目の三角関係が負荷を与えての「爪噛み」だったのだろうと今は思う。

三角関係はスッタモンダあって、私が身を引いて終わりになったのだが、後の噂を聞く立場でもなし、
「二人は今も仲良くやっているといいな」
と、いっぺん涙でびしょびしょになった「心」を何度も真水で洗って天日干ししたみたいな気持ちで、今は思う。
(こ~れ~で~別れていたりしたら!火吹いて怒るね、あたしゃ。)

過ぎ去った恋は、みな美しい。(例外はたんとあるが。)
心には、戦闘機の撃墜マークのように、ハートの印が刻み込まれてゆく。
中には「十日でふられた、人形町の大衆酒場で別れてそれっきりの石井君(神田広告社勤め・年下)」なんて、タイムレコードを狙っているわけでもないのにそうなってしまった例もあるのだが(笑)。

とにもかくにも「巨大クマのぬいぐるみにひげとメガネを足した」ようなドッコイ氏と一緒になれたのが、巨大撃墜ハートマーク、これで打ち止めである。
手の指の・爪のきれいな人である(足はものすごい巻き爪だが)。
噛むほどの思いを、彼にさせたくはないぞ。

老人ホームに入ったら「恋の語りべ」になれそうだな(笑)。
しかも「アターック!・ブローックッ!」の古傷は、そのずっこけっぷりからして、ウケそう(笑)。

だから云ったじゃないの♪2012年01月25日 15:07

昨日から松山恵子さんの、

「♪あんた泣いてんのネ
だ~から云ったじゃないの♪」

のフレーズが脳内を独占している。
ぐるぐるだ~♪(笑)

銭湯雑感2012年01月11日 06:24

(たまには「です・ます」調で)
東京も、郊外ともなるとやはりスーパー銭湯が幅をきかせていますが、土地柄でしょうか「箱根源泉から運んできた湯」それに「万葉の薬草湯」など、客引き文句もにぎやか、送迎バスも巡ってきます。

そんな中でも、市内にまだ3軒ほど、昔ながらの銭湯ががんばっていて、地元のお年寄りに愛されているようです。

特にテレビドラマ「時間ですよ」のモデルとなったお風呂屋さん(TBSの緑山スタジオが近いのです)は古式然としていて、周りはすっかり高層都営住宅になってしまいましたが、それでも、もとから住んでいたお年寄りが(優先して入居できるので)家のお風呂場は使わず、銭湯を社交の場としているようです。
おもしろいのは湯上がりの飲み物、健康ドリンク(ファイブミニなど)が流行ると、みんなあらかじめ入浴前に代金を支払っておいて、「湯上がりに急に冷たいものは体に毒だからねー。」と、順番に冷蔵ケースの上に並べて置いていくことで、「これは『夜の酒場のマイボトル』のようだなあ…」と思います。(笑)

母・芳子さんは、東京大空襲の時15歳。焼け残った「銭湯の煙突」のてっぺんまで登り、東京の焼け野原を360度見渡した、という豪傑オテンバ娘でありました。
「戦争って怖いな。」と思ったそうです。(煙突のてっぺんに立っている時点で、本人も相当怖い状況にあるはずなんですが・汗)
芳子さんの生家は昔の木造回廊式の下宿屋(大学生さん専用)に、長屋に小さな貸屋数軒、そして銭湯の鑑札(営業許可証)も持っていて、そちらは人に任せていました。
当時東京の銭湯は北陸・信越から出て来た人が多く、夏の窯焚き40度、冬も毎日湯ぶねを洗う重労働でも辛抱強く運営できたそうです。

昔の文献で東京・菊坂・本郷・板橋などで「初音湯」「下宿屋・初音館」という名前が出て来たら、それは母方の親戚一族です。

「みんな死んじゃった」という本2011年12月22日 06:50

清川虹子さんは女優で(映画「楢山節考」で有名)2002年になくなったのだが、最後の聞き書き「みんな死んじゃった」(1999)はなにげなく甘損で買ったら、ヒットであった。
サブタイトルは「私の愛した喜劇の夫たち」であるが、芸能界全般に渡り、関わった縁故者のことをとりあげていて、判淳三郎がいかに好色だったか、とか、ポール牧はテレビの指パッチンの芸だけではなく才能ある喜劇人だったとか、とか、藤田まことは登場したときから光っていたとか、来年50歳で子供の頃テレビをほとんど見ていない私でも、
「あ~、この人、分る分る!」という細やかな筆の運びで、聞き書きの人の腕がものすごく良い。
特に「サザエさん」で脇をつとめた江利チエミのことに詳しく(清川さんはフネさんの役)芸能界への登場からその死まで詳しく書いてある。
ビートたけし氏が「寝ゲロを吐いて死んじゃった」といったのがいいところで、ミュージカル「江利チエミ物語」では「風邪薬と睡眠薬をあわせ飲んで死んだ」などと美しいことになっているのだが、バッサリ一切り
『ブランデーの牛乳割りを呑んでいて、つまみのお寿司が咽に詰まって死んだ』
と真相を語っている。
「ブランデーの牛乳割りなんて呑み方を教えたのは私で、そんなこと教えなきゃ良かった。」とも。
高倉健さんとの結婚と離婚についても、チエミさんの姉による詐欺事件についても詳しく書いてあり、「江利チエミ&判淳ファン」にとってはたまらない1冊である。
それと、まだ合法であった頃の、芸能界の「ヒロポン中毒」についても、実に詳しいので、そちら方面に興味のおありの方にもお勧めの1冊である。

2011年11月25日 22:19

実家に、濃いニス塗りの古ぼけた机がある。
よく言えばアンティークだが、祖父の手作りなので無骨でもある。
祖母が身ごもった時に祖父が作り、成長して父が使い、兄が使い、兄が独立してまた父が使い、いまは母が使っている。これを、今回の引っ越しの時にもらうことにした。81年物である。

この机にはひとつの秘密がある。

戦前、「平和主義者」で「労働組合活動家」として特高警察にマークされていた祖父母が、自分たちがいつ捕まってもいいように、引き出しを全部抜いた裏板に「詩」を書いたのだ。
机を継いだ者だけがそれを読める。

母が、懐中電灯で照らして、書き写してくれた。

最初の1行だけは私も知っている。
「嵐は強き樹を作る」
である。それからが、81年の歳月でかすれて良く読めないのだが、
「貧苦の暴……苛れても、支配階級……
 闘志は益々先鋭化し、最後の勝利……
 確信は……堅固となり、自由と平等……
 闘争の余暇を利して、胎内にある愛児のために
 吾が同志のもっとも良き後継者として
 来るべき新社会建設をこの机上より
 創造の一歩を発せし為に記す
  1930年3月20日 (祖父母の署名)」

父の名は「確」であり兄は「等」私は「信子」、みんなこの机から名付けられた。
もしも私に子供が授っていたなら、やはり一字もらっていたかもしれない。

東京裁判傍聴券2011年06月26日 12:24

父の遺品を整理していたら、わら半紙にガリ版刷りの紙片がひらり。
なんと「東京裁判の傍聴券」であった。
一人っ子の父は二十代になりたて。
1930年生まれ、終戦の時15才。
戦中に母を失い、特高警察に目をつけられ逃げ回っていた父親はあてにならず、十五まで少年「スギウラ確さん」は東京の下町で、昼間は上野中学に通い、夜は近所の家の壊れたラジオ修理などしながら生きていた。
あの忌まわしい戦争とは何だったのか、自分なりに見届けたかったのだろう。
それにしても、二十歳そこそこで「裁判を傍聴しに行こう。」という意志を持てるなんて、やっぱり人生7掛け論ではないが、(実年齢×0・7=現代人の精神・肉体年齢)若かりし頃の父母の世代はすごい。

5月25日、母・芳子さんから私への交換日記2011年06月18日 17:24

「カボチャの苗が小さいポットの中で、日毎に成長していく姿を見て感動しました。
我が子も日々成長していく、そのたびに,この子は天才ではと何度も思いました。
その気持ちが無条件で子どもを愛し慈しむことができたのだろうと思います。
それなのに確さん(父)にはもっと慈しんで子どもに接してと言われました。
ええ、何故と思いました。
もっと手取り足をとり教え導いてということだったのでしょうか。
子どもなんて口で言っても本人に欲が出てその気にならなければダメだと思っていました。
「人の子の教育には熱心なのに」(母は小学校の教員)「自分の子は放っとく」とも言われました。
確かなことは、これが一番と思って接したことがいいとは言えないし、やり直しができないことが口惜しいことです。
この次私の子どもに生まれてきたら理想的な子育てをしてあげられるのに……でもその時は又同じことをして失敗したと思うことでしょう。
笑ってしまいますね。
野菜や花を育てて、あの小さい粒から葉が出て花が咲き実をつける…
何とすごいことか、天地の恵みを感じます。
確さんが自分で育てたじゃが芋の初収穫の時の姿を今でもはっきり思いだせます。」

退職後、父は三宅島に移り住み,焼き畑から初めて農業をやりだしていた。
科学技術者の彼も、農業では島の人に親切に手取り足取り教えてもらい、充実した十年を過ごせた。
じゃが芋の初収穫の時は、感動のあまり
「地面を掘ったら黄金がザクザク湧いて出たよ!」
と言っていた。

母(81才)と私(49になりました)はお互い交換日記をつけていて、月に一度くらい帳面を交換するのだが、最近私の周囲のの友人知人に出産、子育てと話題が出るようになり、子供のいない私もやっと母と「子育て談義」をできるようになった。

ちょうど6才、私が引っ越しで幼稚園を中退して家にいた頃、徒歩5分の小学校から母に「家庭科の産休」のハナシが来たのである。
校長自ら菓子折持って話しに来た,その頃は年配の教員と言えばみんな旧姓師範学校卒なので、ツーと言えばカー、退職した母がこの団地に越してきたことはみなさんご存じだったのである。

3年生の兄が、ヒステリックな教師と当たって、性格が変わってしまった頃だったので、私は学校が恐かった。
が、「のんちゃん,週2日だけどひとりでお留守番できる?」と聞かれて、背広にネクタイの年配のおじさんが頭下げているので,思わず「うん」と言ってしまった。

母は朝、腕をぶるんぶるん回して「さぁて、今日もあそんでくるか!」といって家を出て行く。
「お母さんの仕事は学校の先生なの?」
と聞くと
「仕事?私の仕事はガキ大将。学校へ子供たちと遊びに行くの!」
との答え。そのくせ女子師範を出て最初に受け持ったクラスの生徒たちがいまだに毎年同窓会に招いてくれるんだもの。
母は「二十四の瞳」の明るいバージョンである。

兄が生まれたときは祖母が在命だったので預けて働いていたが、4年後私が生まれたとき、未熟児で、もう祖母は亡く、母は兄と私の育児に専念するために職を退いた。
それからが母のお楽しみ育児ライフである。
「この世に生まれて子育てほど楽しいことはなかった」と母は笑う。
本当は兄も私も手のかかる難しい子供だったろうに。
「子育て」は、過ぎ去ってしまえばあっという間で,楽しい想い出しか残らなかったと笑いながら母は言う。
何度も言うが,この人の子供に産まれたことが,私の人生最大のラッキーである。