三社祭で「わっしょい」2023年05月21日 20:04

ニュースを見ていたら四年ぶりに浅草の三社祭だそうで、お神輿担ぐ人たちの映像を見て、「ああ、コロナで辛抱しなくちゃいけなくて大変だったけど、ようやく再開できたのね、よかったよかた」であった。
戦後の集団就職や進学、就職で東京に来た新しい人にはちょっとピンとこないかもしれないが、古い東京人にとっては「お江戸八百八町はお祭り天国」なのである。
このあいだの神田明神・浅草・深川、秋葉神社の「茅の輪くぐり」や王子稲荷の「狐のコスプレして大行列」なんてのまで、春・夏・秋、冬にはあちこちで「酉の市」年が明ければ「七福神めぐり」とめでたい続き。「お祭りがあって東京」という感じ。この春は老いも若きも深呼吸している。

で、三社祭のお神輿を担ぐお兄さんが「わっしょい・わっしょい」と言っていて、私はびっくりしてしまった。
ああ、ついに「わっしょい」復活したか。

いまネットで調べると「東京の神輿は山の手は『わっしょい』下町は『セイャ』。浅草は『セイャ』が正しい」なんてもっともらしく出てくるが、根拠の文献も当事者への取材もないウソッパチである。
故・永六輔さん(浅草のお寺の息子)は常々「神輿は『わっしょい』が正しい。「セイャ』は下品な言葉なので使うべきではない」とラジオで訴え続けていた。
私も実は浅草の何代も続く名門舞台装置会社の社長と以前仲良しで(結婚披露宴に御夫婦で来てくれた)、この人が三社祭の取りまとめ役でもあって、「本来『わっしょい』じゃなくちゃいけないのに、応援に来た担ぎ手さんがどうしても『セイャ』と言っちゃって困っている」とこぼしていた。

「わっしょい」というのは神様の乗り物である神輿を「我背負う」という祈りの言葉、とても神聖なものなのだ。
「セイャ」は力を出して調子を合わせる、単なる肉体労働のかけ声なんだそうだ。

浅草は、浅草寺や六区(演芸街)の「盛り場」があるので、飲食店や演芸関係が多いが、全体を見ると、皮革加工や仏具製造といった代々続く真面目で地味な職人さんの居住エリアであった。
ただ「64年のオリンピックの道路計画でひとつの町内まるごといきなり(ほぼ強制的に)埼玉奥地の団地へ移住」とか、その後も人口流入がすさまじすぎて「仕事は『会社』という形で残すけれど従事者は浅草圏外に移り住まなければならない」という状態になって(社長も社屋は浅草だが住まいは確か杉並あたりだった)「お神輿の担ぎ手がまったく足りない」ありさまになってしまった。

で、もう30年以上前のこと、頼みの綱は日本全国「お神輿愛好会」みこしを担ぐのが好きで、日本全国どこへでもスケジュールの都合つけて来てくれる人たち。
なにしろ大きなお祭り「浅草のお神輿」である、揃いの祭半纏で喜んで来てくれる。
ただ、問題ははしゃぐのが好きな「若い頃やんちゃした人」つまりヤンキーだったりバイクぶいんぶいん言わせてたお兄さんだったりもありうるわけで、景気づけにとお酒飲んで来ちゃったり、途中で一服と担ぎながらタバコくわえたり、ケンカしたり、なんてことがないように取りまとめるのが大変。
事前に「どうか『わっしょい』でお願いしますね!」と念押ししても、いざ担ぐとテンション上がって「セイャ」になっちゃうので、そこがどうしたもんだか困ってるということだった。
もう、神輿の品位を守れるか・ということである。

それから幾星霜。
今年「わっしょい」の声を聞けたのにはびっくりした。
コロナによる長い中断、祭りから祭りへと渡り歩く事ができない日々に「そもそも祭りって何?」と考える余裕が生じた、ということか。

「なんとなくカッコいいから」というイメージだけで「国家神道復活!」なんてほざく考えなしはとんでもないと思うが、「今年のお神輿、わっしょいでいってみようかな」なんて考えてる「元やんちゃなお兄さんだったおじさん」は、私、好きだったりする。

逆さを見る2023年05月16日 11:49

ドッコイ氏はICUから出られて、まあしばらくは個室に雪隠詰めらしいけれども、とにかくヨカッタ。
ベッドの中で「自治会」がどうの(役員だ)「住民一斉草刈り」に出られなかったの言っているのだが、まあ、それはしばらくは諦めなさい。
ホントに律儀なやっちゃ。
三人にひとりは病院辿り着く前に死んじゃうというし、辿り着いたけれどダメでしたというケースも考えると、本当によくぞ命拾いしてくれたんだなぁと思う。いやはや、ラッキーだった。
ドッコイ氏が生きているというのは、私にとって本当に大事なことで、常日頃
「1日でいいから私より長生きしなさい。私を看取ってから死になさい」
と言い聞かせておるので、逆さを見なくて、あぁヨカッタ。

「逆さを見る」、つまり「先に死んじゃう」というのは、戦前の東京ではタブーで、親より先に子供が亡くなった場合最大の親不孝なので、親は葬式を出せなかった。
まあ、ウチは両親共に江戸時代からの「正真正銘江戸の人」なので、そんなせいかもしれないが。
じゃどうしたかというと、ご町内なり親戚なりが葬式を執り行う。親は一切ノータッチである。
母の妹が死んだのは、戦争で空襲が激しくなってから、駅前に住んでいて延焼を逃れるためにご町内一斉に「間引き疎開」といって、「全部空き地にするから住民全員立ち退きなさい」のその日、引っ越した晩であったという。
腸捻転だったらしいのだが、はっきり言ってもう戦争で医者どころじゃなかったらしい。
葬式を出そうにも町内会はその日の朝解散してしまって、親戚も戦争でそれどころじゃなくて、結局母の兄とまだ女学生だった母がリヤカーを借りて葬式を出すことになった。
焼き場にひいていったら、もう燃料がないんで薪を持ってこなければお骨に出来ないと言われた。で、昨日まで住んでいた家に行って(間引き疎開なので町内綱を張って立ち入り禁止である)憲兵に事情を話して、家の玄関やら廊下やらの板をベリベリと引っ剥がして、それをリヤカーに積んで焼き場に行って、これで火葬にしてくださいと頼んだという。
焼き場には「薪探し」で親族出払って、幼い兄妹がぽつんと付き添っている棺桶があって、その棺も板がなかったのだろう隙間だらけで、母親らしい女の人の長い黒髪がぞろりと覗いていた。
「ああ、今は本当に戦争の真っ最中で、東京はとんでもないことになってしまっているのだな」
と我が母が実感した一瞬だったという。
アニメ「火垂るの墓」は幼い妹を火葬にするために特別配給で炭をもらえて、あれはまだ「マシなケース」だったというのだ。
母の家は帝大(東大)生相手の下宿屋で、玄関や廊下を雑巾がけするのは子どもたちの仕事だった。一昨日まで雑巾がけしていたその床板を引っ剥がすのは、どんな気持ちだったろう。
「疲れたろうから、俺がひいてやるよ、乗りな」と兄に言われてリヤカーの荷台に腰掛けて、妹のとても小さい骨壷抱えている母はまだ14歳だった。
見上げる空は、夕焼けだったという。

というわけで、私はなにがなんでもドッコイ氏より先に死のうと思っている。
この年ではもう重量級のドッコイ氏の棺桶積んだリヤカーなんて、どう頑張ってもひけないからね。
葬式なんて、養女になった都合上やたら沢山いまくった親やら兄やらもう人並み以上に出したので、これ以上はまっぴらだ。
ドッコイ氏に看取られて死ぬのが、私の望みである。

情景2020年05月07日 07:40

薄緑色の乳母車(今のベビーカーと違って対面式)に乗せられてわたしは母を見上げている。

母の片手にあずきミルク色の日傘、その遠くにけやき並木からちらちらもれる木漏れ日。

カラカラと車輪の回る音、母がなにか優しく話しかける声。

「准・戒厳令2日目」雪です。2020年03月29日 13:15

さて、『准・戒厳令」2日目の日曜日。
私の住む町は雪です。
窓の外、銀世界、まだ降りやまぬ。

ふと思いだす出す…

そう、まるで「2・26」の日。

これで空にアドバルーンが上がっていればカンペキ!

「蕎麦屋のカレー」を作ってみる2020年03月19日 21:12

以前スーパーで「和風カレーのルー」というものを売っていた。
(今でもあるのかもしれないが、私の行くスーパーでは見ない)
昔懐かし「蕎麦屋」で出てくるライスカレー、カレー丼、カレーうどんの味、和風だしに、具は長ネギと豚コマ。

カレー粉大缶買ったし、冷蔵庫に具もあるし、ふと思い立って作ってみた。

豚コマをひらひらと広げ、カレー粉と日本酒をふる。
なじんだな、というところでテフロンの鍋に油を少々、豚コマを炒める。
日本酒と水を投入、見当は「3人前」である。
煮え立ったらアクをすくい、カレー粉を「この辛さなら」というところまで投入(西洋カレーと違って小麦粉と一緒に炒める必要がないので、後入れOKである。
そばつゆを(ウチはにんべんのつゆの素)おたまいっぱい入れる。
風味と塩気が足りないので醤油をたらす。
長ネギの、スープの下にしちゃうような青いところからどんどん斜め切り半本、しめじひとつかみを投入。
くたっとなったら水溶き片栗粉で「ゆるめのトロ味」をつける。
彩りが足りないので「くこの実」バラバラ。

はい、出来上がり!

カレーうどんにもかけるので、西洋カレーより塩気薄く、とろ味も「ちょっとゆるいかな?」位でよい。

カレー粉もクコの実も長ネギもきのこも「薬膳」である。

バターや隠し味のチョコレート、チーズやヨーグルトなどの「西洋カレー」はハイカロリーだが、こちらはローで、体に優しい。
お試しあれ、片手間にチョイチョイのパ!です。

そしてみんな回ってこなくなったんじゃ2016年01月25日 04:03

「ハンセン病隔離施設」だった瀬戸内海の長島愛生園は近接する邑久光明園(おくこうみょうえん)とともに、ハンセン病療養所に残る隔離政策下の歴史的建造物を世界遺産に登録すべく活動を始めた。

養母は明治40年四国生まれ。
子供の頃はお遍路宿の呼び込みなどやったそうだが・・・

「普通のお遍路さんは首からふたつ袋を提げて、
『麦ですかお米ですか』
というて回っとった。
中には破産して四国に渡って来たらしい人もおった。
回り続けている限り、食事と宿は保証されとるから。

その中でな・・・

『らい(ハンセン病)』の人たちもおったんじゃ・・・
脚がひざまでしかない人、指のない人、鼻のない人、助けおうて回っておった。
宿には泊まらず納屋の軒先なんぞを借りて寝起きしとったよ。

それがな、ある日からぱたりと来なくなった。
村や町の入り口に保健の役人がまちかまえておってな

『これからはもう辛い遍路巡りをしなくても、
食べるものも寝るところもみんなお国がしてくれる』
というてな

ひとり残らず連れて行ってしまったんじゃ・・・」


20以上年たっても忘れられない、深いため息。

日本では杉原千畝が有名だが2015年12月05日 20:42

中華民国には駐ウイーン大使の何鳳山、満州国には在ベルリン公使の王替夫、トルコには在ロドス島大使のセラハッティン・ウルクメン、ポルトガルには在ボルドー大使のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがいて、みんなユダヤ人に「命のビザ」を出してたと知る。
外交官の良心。

ハイジ2015年06月30日 21:51

「アルプスの少女ハイジ」のアニメを立て続け見ている。
本放映’74の時は父の「クラシック鑑賞タイム」と重なって見られなかったもの。
どうしてクラシックマニアというのはこう頑固なのだろう。
家族は1台きりの小さなテレビを観せてもらえなかった。
まだ父権の強かった時代である。
「ハイジ」はリアルタイムで観ておけばよかったなあ、と思うアニメの一つ。
「未来少年コナン」はラッキーにも観れたけれど「ハイジ」は空白である。

少年2015年06月27日 07:28

うなじの細い青年だった。声も高く、まだ「少年」と言っていい位。
ただ、バスに乗るとき、真っ先に
「☆☆町の『○○建設』に就職の面接に行くんだ、時間までに着くか?」
と運転手に聞いた。
中学校は出ているのだろう。
しかし一番前の席、彼の挙動は落ち着きがない。
絶えず手首をフラフラさせたり、頭をユラユラさせたりしている。
「面接がそんなプレッシャーなのだろうか?」
しかし落ち着かない。

☆☆町が近くなると、彼はしきりに運転手に
「○○建設はどこだ」と繰り返し聴くようになった。
バス停すぐである。
「来た道をちょっと戻って、信号渡って、十字路を左に折れる、そこのビル」
と何度聞いても覚えられないようで、質問を繰り返す。
バス席の中に奇妙な緊張感が漂った。
☆☆町のバス停。
彼はもう一度道順を聞いて、両替してバス賃を払った。
10円玉が1枚後ろに転げた。
ひどくあぶなげな態度で彼はコインを追いかけ拾った。
立ち上がった彼の、開いた口元。
歯が乱杭であちこち黒く溶けている。

ああ、末期シンナー中毒。

バス全体に、声にもならぬ低いうなりが走った。
彼はたぶん採用されないだろう。
というか、もと来た道をたどれるのか?
面接の口をきいてくれた人が入るのだ、たぶん親は健在だろう。
しかし、脳をとろかすほどの薬物依存者に就く職はない。

どこからシンナーの誘いを受けたのだろう。
どうして、こうなるまで放っておかれたのだろう。
少年(青年)の来し方行く末を想い、ため息をついた。

もう15年も昔のことだが、
彼が今幸せでいるか、
ふ、と
思い出すときがある。

しょせん人の子2015年06月26日 22:36

「ナポレオンは3時間しか眠らなかった」というのは間違いらしい。
執事の記録によると彼はしょっちゅう「昼寝」しており、トータルは8時間ほど。
ただ単に睡眠障害で「長く眠れなかった」ということらしい。
ナポレオンとて、「しょせん人の子」である。