爺婆は「どうして懲りない」のか?2020年03月28日 04:56

夫・ドッコイ氏は職務の都合上、南多摩近辺あちこち朝早くから車を走らせている。

「コロナ」が話題になり、マスク不足が言われ出した頃、ふとひとこと
「なんだか毎朝、ドラッグストアやホームセンターのシャッター前に、お年寄りが2~30人集まっている……」

それが、マスク買いからトイレットペーパーへ、そしてティッシュボックス買い漁りへと移行してきたあたりで、氏は
「でもこの町は団地世帯が多数派、おかしい」
と言い始めた。
高齢者の多い団地の自治会長として、数十年に一度の全戸一斉補修・改築工事に立ち会った彼は、工事準備のため1軒1軒訪ねて回り、高齢所帯の「ドアの内側」を目で見て知っている。
「お年寄りの住まいは、古くて移動出来ない家具の隙間を埋めるように衣類や雑貨、未整理の情報物など『もうモノでいっぱい』で、トイレットペーパー、それも独自ブランドの『24ロール』の袋なんて、上にあるわずかな空間も積み上げる事によって塞いでしまうだけなのに……」
しかし、雨が降っても雪(!)が降っても、小柄なお婆さんが、連日朝も早から「特大24ロール袋」の底を地面にズルズルこすり引きずり歩き
「底のビニールが破れて、泥水で下がふやけて茶色く染まっていた。いったいどうするんだろう?」

ここでふたり(1962年生まれ・同い年、親は戦前生まれで自身もオイルショック体験)は語り合うのである。
「終戦から1年は日本経済が大混乱を起こし、都市部の人々は飢えに苦しみ物価もどんどん上がっていった、生き抜くこと自体が困難だったと親から聞いた」
「オイルショックの時は、トイレットペーパー、砂糖などが手に入らなくなり、買い漁り現象が起き、同級生のお母さんは『カップヌードル1箱』スーパーから背負ってきて、それが武勲と子供の間でウワサされた」
「でも洗剤(昔の洗濯洗剤はパウダータイプで1回洗濯あたりコップ半杯も投入せねばならなかったので箱がとても大きかった)を買い貯めたお母さんは、オイルショック後『コンパクトタイプ洗剤』が主流になり、人に譲ることもできず、ベランダの陰で固まってしまった旧式洗剤をスプーンでゴリゴリ、背をかがめて削りながらタメ息ついてた」

そして思わず声をそろえるのである。

「ご隠居さんとして経済活動から引退し、地域の知恵袋・相談ボランティアとして機能していたはずだった『日本のお年寄り』は、なぜここへ来て自身の体験に懲りず、買い漁るのだろう!?」

実際、市内のドラッグストアに行ったら、紙製品の棚はカラッポ、マスクも「入荷日未定です」の張り紙、「通った後はペンペン草1本生えない状態」の、お年寄り集結部隊による買い漁りの波状攻撃なのである。

ドラッグストアに通じる道でお婆さんとすれ違った。
杖はないが足元ヨタヨタ、白髪髪をひっつめ、垢めいた服、首からありあわせの紐でさげた自宅の鍵、で
「ちっ、今日は買えなかった……」
とつぶやいていたのである。

ゾッとした。

落語にある三太夫ばなし。
殿様が家宝の壺に飴玉を入れて、楽しんでいる。
老家老の三太夫が
「殿、わたくしもその飴をいただきたいものでございまする」
「うむ、取るがよい」
「殿、壺から手が抜けませぬ!」
「なんと!三太夫、おお、先祖代々当家に使えてくれたお前のこと、えい、たれかある!金槌をもて!壺を割れ!」
で、家宝の壺を割って、自由になった三太夫の手には、いっぱいいっぱいの飴玉が鷲づかみにされていたという…

これは「死欲」である。

これだけ生きてきて、様々な苦しい体験を乗り越えて、まだ分からないのか。
日本の製紙産業の供給量は、オイルショック以降古紙再生技術世界1に至って、抜群の上質量産体制を誇るということを知らないのか。
(その点オーストラリアなどは「トイレットペーパー100%中国製頼り」でお気の毒であるが)

新聞もラジオも放棄し、民放の「アオリナレーション視聴率稼ぎ・ワイドショー番組の映像」と「ウワサ話」だけで社会を認識し、計画性もなく行動する人々。

それを「愚民」と言わずして何と言おう。

日本の戦後民主主義は、経済のよかれよかれ、マスメディアのポイント稼ぎ大安売りで、政治・行政・司法及びトップ経済界の選民化と、「リッチな愚衆」「貧しい愚衆」「SNSでいいとこ取りの情報収集が多数派」という極端な階層社会を形成し、積極的に(まずは新聞を見開いてザッと眺めることから「社会状況を全体的に把握する」ゆとりのある)健全な情報を収集し、常日頃の文化的活動によって自らの精神の健全性を保とうとする「知識層」が少数化することにより、とんでもなく偏った「支配層VS多くの愚民:少数派知識層」に成り下がっているのである。
日本は今、危機的状況にある。

国として「コロナウィルス」に立ち向かう、以前の問題として
「立ち向かう日本国民の大多数が身勝手なバカ」なのだ。
携帯大手がいきなり通話料金3ヶ月猶予を認めたのも、
「バカが無情報状態からパニックになり『革命騒動』を起す」
最悪の事態阻止対策である。
もちろん政府がそれを望んでいる。

買い占め部隊の爺婆には変動が起きた。
宅配業者の、午後の受付ラッシュである。
「東京に居を構える」=「東京外・特に遠方」にとっては
「出世コース、あがり一丁!」
である。
出身地に偉ぶりたい爺婆が、故郷で家を継いでいる兄弟の、その嫁たちに「ありがたられたくって」、マスク・トイレットペーパーを段ボールに詰めて送り出している。
「東京に行った姉さん、兄さん」は「いつかそちらに感染波が来たら大変だから」
と郷里の親族に心を配ってくれる。
それが地元で
「コロナというものは恐ろしいらしい」
と噂が一人歩きして、いきなり熊本における
「突発的トイレットペーパー買い走り」
のような波動運動を引き起こしてしまう。

住み慣れた父母の家も、老朽化、地球温暖化、台風災害などにより建て替えられてしまって、もう帰省しても「兄さん、姉さん」ともてはやされないアブレ爺婆の、これはもはや
「東京人間になってしまった『おのれが身』への呪い歌」
である。

首都圏・大都市に移り住むことが「あがり」だと盲信して大きな顔していた、実際には狭い団地で古い家具の移動すらもままならないまま「閉鎖空間」で生息している、健全な生活維持活動も出来ない爺婆の、これは
「日本全土、ふるさとへの、善意にかこつけた恨みの乱射行為」
なのである。

と、思ってしまうのは私が日頃ドラッグストアや宅配営業所の前を通過して
「おやおや、これは…」
と思ってしまう、想像力過多のせいでしょうかしらね。

ふう…

朝のテレビ小説「スカーレット」の面白さ2020年03月28日 22:50

NHKの朝ドラマ「スカーレット」が昨日3月28日をもって最終回を迎えた。
「全部見た」どころか、今処方されている薬の副作用で昼夜逆転の生活、「寝過ごして残念」という日の連続だったが、夜のダイジェスト枠などで流れは捉えていた。

このドラマは地味だけれど、確実に面白かった。

地方の、戦後の大貧乏生活で中卒就職からスタート(子供時代は「お約束」なのでもちろんあるが)陶芸家としての人生を切り開く主人公。
最初は地元就職に失敗して、大阪の下宿屋に女中奉公である。これが高橋留美子さんの名作「めぞん一刻」みたいな個性派揃いのステージで(あとでその人脈が全部活かされる)、その中で「ふとしたことから」「美」に目覚める。
ワンマンな父の一存で、いきなり故郷に呼び戻され、地元の「火鉢工場」で働き始め、ひょんなことからセクション変えに成功し、火鉢の「図案」部門の一員となる。
元日本画家の、イッセー尾形演じるボスに手ほどきを受け、モダンな女性スタイルの火鉢発売にまで漕ぎ着ける。

「研究員」としてやってきた美大卒の男性と、最初は「お仕事、見学させて下さい」の関係から、「陶芸とは何か」を学びつつ、恋をする。(この相手役俳優が、面立ちは地味だが、ものすごく上手い)

ああ、しかし「火鉢」は斜陽産業、ボスは去り、恋人は失業、しかし「この土地で陶芸をやって生きたい」という彼と結婚。
家は戦後流れ着いた夫婦と幼い娘3人のためにセッティングされた「茅ぶき屋根の古い木造家屋」である。
最初の台所は「かまど」で、富田靖子さん演じる「お母さん」がセッセ、セッセと火をおこし、煮炊きをする。それが、お父さんが死ぬあたりからガスボンベが導入され、それでも台所は「土間」で、やがて板の間に改装され、蛍光灯が入り、鋳物のガスコンロから火口の確保されたガステーブルになり…お母さんはずっと和服だったのが、地域の「ママさんコーラスの会」にお誘いを受け、週に一度「洋服を着て外出し、練習の後には喫茶店でママさんたちと甘い物&飲み物でひとときを楽しむ、『女の、主婦の・ゆとりとカルチャー』を体験する人生」にまで辿り着き、死ぬ。
(在宅闘病意地っ張りお父さんといい、ひっそり支え続けて生きて、満足して死ぬ母さんといい、骨髄の病で若死にするひとり息子といい、脚本家は「人生の『終わりどころ』のツボ」を外さない)

夫は、戦後日本の陶芸作家は「電気窯が当たり前」のアトリエで、研究と努力の結果大きな賞を受賞し、陶芸作家としての人生に活路を見いだす。お金はないが息子を授かり、家族全員で愛して育てる。
しかし「地元陶芸の、窯の原型(ここで主人公が子供の時手に入れた窯の内壁のカケラ「スカーレット」が活きるのである)、「原点回帰」を目指し、古式窯を作る。薪を焚き、何日も夫婦不眠不休で火を守り続けても、研究で知識として得た「目標温度」に至らず、失敗が続く。

そのとき、薪を放り込み続ける「運動連鎖」ではなく、薪そのものの「断ち割り方」、つまり「かまどの前で煮炊きしていたお母さんを手伝ったヒロイン」の経験則が解決策となり、目標温度に至る。
しかし、そこで夫は自分の「陶芸家としての限界」を知ってしまい、陶芸作家から「各地を渡り歩く研究家」に戻ってしまう。
「君も焼いてみなよ」
の一言で「自分の創作」に目覚めてしまったヒロインが、窯を守り、子育てし(なんと「足ガール」の「若様」、NHKの秘蔵っ子・伊藤健太郎さんが、この気持ちの良い若者を演じている)、母を看取り、妹たちの人生にエールを送り、地域社会に生き、「前進」していく。

この、まったくゼロ、どころか大きな架のあるマイナススタートのヒロインを演じた戸田恵梨香さんが素晴らしい。このドラマ枠では異色の年齢だが、「陶芸家としての大きな、そして繊細な『手』の持ち主」で、「中学校時代を演じるヒロイン」からのスタートとなったため「とにかく5キロ太りました」と笑う「気っぷの良さ」、そして『困難な女の人生に積極的に待機できる懐の深さ』の持ち主である。

両親の背中を見て育った息子は、陶芸を目指し、猛勉強して大学に受かり、学び、青春を謳歌し、恋をして、でも難しい病気で、最終回で分かるのだが26という若さで逝ってしまう。しかし、彼の『作品』は残るのである。アトリエの一角に、繊細な、優しい「青の陶芸」を志した彼の作品が、生き続ける。

芸術とは「作品が生き続けることによって人生を永遠のものとする才能を獲得した人種の、格闘と達成のドラマ」である。だから芸術家は「人生そのもの(ゴッホやダヴィンチのように)も伝説として語り継がれる」のだ。

そしてこの「スカーレット」は生活風俗の考証が、ビックリするほど正確だった。いつ、このデザインの生活家電が入ってきたか、お父さんが買っちゃった「衝動買いの一斗缶」が、手を変え品変え、この家屋でいつまで生き続けるか、基本的にお金のない生活の中で、ヒロインは「ツギのあたったマフラー」をいつまで首にまとわせるのか、かやぶき屋根の「家」はいつ「茅の上からトタンぶき」になるのか、ものすごく正確に記録し続けているのだ。
この時間枠のドラマには「昭和37年の東京」で、飲食店の前に復員兵が並んでいる、という「時代考証メチャクチャ」な手抜き作品もあったのだが…


伝説の「おはなはん」は、お転婆さんからいきなり「将校の妻」になったヒロインの素直な心の揺れを、幸せに向けて描ききった。

「マー姉ちゃん」は女系家族の次女、日本初の女性漫画家長谷川町子さんを田中裕子さんが演じ、それをサポートする母と戦争未亡人の姉を、藤田弓子さんと熊谷真実さんが絶妙の呼吸で「ホームバラエティー」としてドラマに仕立てた。

「おしん」は底意地の悪い橋田壽賀子さんの「女の一代記」である。海外では、そして国内でも「少女編」が繰り返し放映、スペシャルDVD化されている。演技派・乙羽信子さんは、よくこんな毎日ヒロインの心境のコロコロ変わるドラマ展開に「文句をつけなかったものだ」と思う。ほんと、苦節の人生から一転して「成功談の押し売り」である。

「ゲゲゲの女房」は、神様の妻、天才漫画家(戦争で片腕のない障がい者だが、世界観が素晴らしく、他の追随が出来ぬ水木しげるさんの、大貧乏からスタートする人生ドラマで、「漫画家の独特な、風変わりな世界」をキチンと表現仕切ってくれた。

視聴率を稼いだ「半分青い」は、少女漫画というとても個性的な世界に生きているうちはよかったのだが、漫画家をやめてからのシングルマザーとしての生き方の描写に無理があった。

やはり「はね駒」の斉藤由貴さんや「はっさい先生」の若村麻由美さんは新鮮で、感性も良く、上手かった。

「スカーレット」の最終回、最後のシーンで、ヒロインは人生を振り返らない。
涙を誘わない。しみじみしないで、窯に薪をくべている、その
「スカーレット・レッドに『炎』に照らし出されるヒロインのアップショット」で終わる。
地味であるが、芸術作品としての完成度は深い。
そう、「スカーレット」は「炎に導かれるヒロインの人生」を、的確に描ききったのだ。

これは「美事な成功作」である。