ふう、たどりついたけど再開できるかな?2020年03月09日 07:23

また「お座敷」の場所がわかんなくなっちゃって、しばらく流浪の旅に出ていました。
(早いハナシがパソコンの前でどうしたらいいのか触り方が分からずホェ~っと(笑)

何度も「しもたや」になるこの「お座敷ターザン」。
さて、蜘蛛の巣払って、ぞうきんがけして、まだ朝だから、

とりあえず暖簾を吊そう。

いらっしゃいませ。

ミレイユ・マチューはやっぱり良い2020年03月09日 20:38

 関西在住のシャンソン歌手・市川民子さんにに
「少女時代聴きまくったミレイユのレコード、処分するのもなんなんで、よろしかったら貰ってやってくれませんか?」
と問い合わせしたのは、いったいいつだったか。

 あるのは「実家」である。父の遺したレコード棚の片隅に居候している…ハズ~?、てなもんである。それでも多分、まだ、ある、はず!と掘ってみたら出てきた。その数8枚。

 でもって私は左手「杖」なんで持てなくて、夫ドッコイ氏に車で運んでもらい、家で一筆したため、
「でもライヴ盤の2枚は私にとって思い出のアルバムなので、できればコピーお願いできませんか?技術とか法律とかいろいろあるから、無理だったらいいです。」
と添えてドッコイ氏に宅急便配送受付まで持っていってもらった。
その頃私は自宅で寝たきりで、利き腕が動かないから全部「口述筆記(檀ふみさんのお父さんの晩年のようだ)アドレス帳引っ張り出して「この住所メモして」と、ドッコイ氏をあごで使った。まったく持つべきものは実直な伴侶である。彼は「めんどくさい」とか「今疲れてるから今度、ね」とか、その美しい口が裂けても言わぬ。
(そうよ、私面食いなの・笑。「美男で聡明で誠実」な伴侶を見つけ出すまで、ずいぶんと待ったわ~)

 で、市原さんから連絡があって
「ありがとうございました、これは『お宝』です。コピーは技術的にちょっと難しいんですけど、ツテを頼ってやってみますのでしばらくお待ちください」
とのことであった。
 
 それから送られてきた手紙
「コロナウィルス騒動であちこちのシャンソ二エ(シャンソン酒場)が休業になって、自宅でやっている音楽教室も休業。こうなゃりゃこっちも腹をくくって、シャンソンの勉強に励みます。もうちょっとお待ちください」
私が電話して
「待ちます、頑張ってください!」
「はい!」

 で、先日届いたのが〒のレターパック満杯。
中身は「レコードジャケットの帯付きカラーコピーA4、解説・フランス語詩、日本語訳「総コピー添」のCD、しかも1枚ずつシステムバインダー入り!。
あとはバインダー本体さえ買ってくればもう棚の一角に「ミレイユマチュー・マイ・コレクション」が出来上がるところまでのお気遣い。
ああ、レコードの文化とはこんなに懐深く、教養に溢れるものだったのか。
熱心なシャンソン歌手の市原さんが「お宝」というのも、なるほど誇張ではないな、と。

 しかも
「あ、『ツテ』は私のフィアンセですので、お心遣いなきよう」
ですって!
まー、歌うことに真摯で、勉強熱心で、村上春樹の「小確幸」と酒蔵訪問を楽しみに生きている貴女のこと、お幸せに、新居に引っ越すならアドレスお教えください、またお手紙書きたいので…とお返事。

 そのついでに思い出したこと、文明と文化の今の度合いなども書いたわけだが。


 CDが、今危機にある。フランス盤で手に入るミレイユマチューはジャケットがペロンと1枚とCDディスクのみ。
「フランス語が分からない人はいいです」
という、文化の中華国家フランスにしてはずいぶんお寒い、「お年寄りのための懐かしのメロディー、日本で言えば、高速のサービスエリアで1枚2千円で売っているから、道中のお供にどうぞ」扱いなんである。
これは「間違っている」と思う。

 音楽は「感性」で始まるもの、これは正しい。しかしその裏には作詞作曲歌手自身の歴史と知的探求がある。それを学ぶことは「知性の持続と向上、人生の本質の向上」である。(こういうとき私「スキルアップ」なんてお安いカタカナで箔付けられない、日本語しか分からないへそ曲がりである)

 女子校時代、遠距離通学と宿題の多さに悲鳴をあげながら、それでも私はミレイユマチューを自分で訳した。そして「翻訳家の日本語訳」と読み比べて
「おまえの義務」は「だって伜や、おまえ兵役だってまだだろう?」とか
「この娘はおまえの為ではない」は「この貧乏人の小娘はウチの敷居をまたぐにふさわしくない!」とか、
プロの「技」を発見していった。
今は「ボンジュール」と「メルシー」しか言葉が残っていないフランス語(10年やってもこの有様よ)だが、学んだことに損はなかったと胸を張って言える。

 次のノーベル平和賞第一候補「グレタさん」の目はジャンヌダルクの大天使に導かれた瞳ではない。どこか静かに、冷静に自分自身を高いところから観察している。
スースーする小さなカマボコ板で老いも若きも「情報交換」する時代。

 それでも「じっくり学びたい」という人は、いる。
自分の目で、耳で、指で「感じたい」、視覚刺激だけの情報合戦に突き動かされない人種は、確かにいるのである。

 歌舞伎と同日に休止を決めた「宝塚」が、客席全員マスク着用で再開するという。日本独特の女性文化だが、その歴史は出雲の阿国から続く。
劇場よ、美術館よ、図書館よ。視覚と聴覚の「お祭り騒ぎ」であるライヴハウスはまだ無理としても。そろそろ再開してはいかが?


2020/03/09 22:46

コロナの嵐の真っ最中に

これをもって「華やっ子・復帰最初の文章」とする。