あけましておめでとうございます2013年01月01日 01:47

今年もへっぽこな文章を書きますのでよろしくおつきあいください。

(あと、どうも文章をご自分のブログ・サイト・本などに書き写している方が一部いらっしゃるようですが、一応著作権法は守ってねー☆)

六福神2013年01月05日 13:15

「一福を 残してめぐる 寒さかな(笑・多門寺~♪)」。ドッコイ氏はただいま隅田川七福神めぐり。私はおなかの調子が悪いんで、留守番。「多門寺」(毘沙門天)だけ駅1ツ半くらい離れて鐘淵(かねがふち)のほうにあるのよね。

鐘淵(鐘ヶ淵)と聞いてビクッとしたあなた、池波正太郎「剣客商売」のファンですね。(笑)

慈姑(くわい)2013年01月05日 21:18

なんて優しい名前だろう、(長野に住む私の義母も「慈姑」である)冬凍る地帯ではお目にかかれない、おせちの一品である。
ほっこりして淡い甘味のなかにも、ほろりとした苦さがある。
我が家では母と私が大好物で、毎年暮れに探し回るのだが、安いのは中国産の小さい粒で、お味もあんまり宜しくない。
お正月の最後には、残ったくわいを母と娘で譲りあいである。

実家のソファでうとうとしていたら、いきなり「替え歌の神様」が降りてきた。
曲は「ラストダンスは私に」で、越路風吹さんも福山雅治くんも歌っている。

「おせちは お屠蘇(とそ)みたいに 私を酔わせるわ。
どうぞ、つまんでらっしゃい 数の子も伊達巻きも。
だけど私のため のこしておいてね、最後のくわいだけは♪」

分かる方は笑ってやってください。
分からない方は「YouTubu」へどうぞ。

川の畔に住む人は2013年01月10日 03:36

養母(明治40年生まれ)の介護で横浜に住んでいたとき、丘の上にある日本画家の養母宅はアトリエばかり広く同居が無理なので、丘を下った川沿いのアパートに暮らしていた。
帷子川(かたびらがわ)という。風雅な名前である。
もっとも日本人がまだ「公害」というものに危機感を持っていなかった頃は、この川、上流の捺染工場(当時横浜は世界のスカーフの90%を捺染していた。グッチもエルメスも、横浜で染めて、本国で縁をかがってメイドインフランス一丁上がりである。)のピンクや黄色の廃液で染まっていた。
当時横浜の「ヤ」のつく若い衆は、
「オゥ、簀(す)巻きにして川に浮かべちゃろか」ではなく
「オゥ、簀巻きにして赤やピンクに染めちゃろかい」
とスゴんだ、という噂もあった。
子供の頃から養母の家へ通い慣れた川の畔である。
私たちが移り住んだ頃はすっかりきれいになって、鮎を釣っている人がいた。
尋ねたら「食べるには適さないが、活かして置いて友釣りのおとりに使うのだ。」という。

「川の畔に引っ越しました。」
と養母に告げると、
「それはふたりとも前世でいいことをしたんじゃろう。」
とたいそう喜んだ。何かと思ったら、川のほとりに住む人は、洗濯でジャブジャブ盥で洗わなくても、流れに沿って、着物の襟のところに大きな石を載せておけば自然と水流できれいになり、手間が省ける、というものであった。
多分奈良・平安にまで遡る日本人の知恵である。
昔の洗濯は重労働であった。
それからの解放を「前世でいいことをした」に置き換え、来世は川の畔に暮らせるように、現世で徳を積む。
「なるほどなあ」と夫・ドッコイ氏と顔を合わせたものである。

明治40年生まれの養母には、何十代もの先人の知恵が詰まっていた。
もしも文明が衰亡して、原始時代に戻ってしまったら、ドッコイ氏と私は川の畔に住もうと思う。

年増好みの…2013年01月19日 09:01

奄美に「泉重千代」という、ギネス「世界一」長寿のおじいさんが、いた。インタビュアーが「お好みの女性は?」と訊ねたら「ん~~~…『年上の女性(ひと』…」世界でたったひとりしか飛ばせないジョークである。

牡蠣とR2013年01月26日 21:57

生牡蠣買って来て、ムニエルにして、焼きたてにレモンぎぅぎぅ絞って食す。ああ、「R」のつく月は、好きだわ、私♪