実家まで5分→30分2016年09月18日 21:18

骨折してから「じっとがまんの寝たきりの人」だったが、久しぶりに実家まで歩いた。
過去徒歩5分だったのが病気で15分、今回はさらに折った肋骨が杖の方の脚だったので歩く姿勢に無理があり、杖を反対側にしてかなりあぶなっかしく30分かかった。
実家がどんどん遠くなる。
とほほ・・・

死について・52016年04月18日 00:00

さて、骨上げである。
喪主とその妻から順番に、「ふたり箸」で焼き上がった骨を骨壺に収めていく。

ここで手首の痙攣が出て、私の持った青竹中節(ふつうの箸は上に節目が来るが、骨上げでは上3分の1くらいに節をつけた青竹の箸を使う)の箸はぶるぶる震えだしてしまうのだが、気づいたドッコイ氏がパッと手首をおさえてくれて、とにかく最初のくるぶし一片を骨壺に入れる。
あとは親戚任せである。

「あー姉さんやっぱりガンだわ、骨がピンク」
と叔母が言うので見たら、肋骨の内側が鮮やかな桃色に染まっていた。
病歴は骨にも出るのだろうか。
長い人生、いろいろな葬儀を体験していくと、見えてくるものもあるらしい。

最後、遺灰を集めるとき斎場の職員は「レレレの叔父さん」と化し、台車の上のお義母さんの遺灰をモウモウとちりとり箒で払い清める。
次に使用する人を乗せる状態にまで戻すらしい。
その場に並んだ兄弟一同ゴホゴホ咳き込み、70にして花粉症になった末の叔父など鼻粘膜がコーティングされ、鼻水の分泌が一瞬止まったほどだ。アビキョウカン。


マイクロバスでホールへ戻って、お坊さんが来るまでの間、昼食におにぎりと漬け物の大皿盛り。

朝食べなかったのと、とりあえず「下界へ降りてきた」安心感で、おにぎりふたつ、漬け物が、これがまた美味なこと、さすが長野は特産品である。
塩分が入って、体の中で滞っていた循環がはじまる。

午後、檀那寺の「殿様の菩提寺」からは、わざわざ総住職(年がいっているのでお経息継ぎ大変)と、年若のお供がひとり、これはよいノドで読経の肺活量も申し分なく、木魚、大小の鐘、鳴らしモノなど大活躍である。
総住職は緋色に金の錦のスリッパ、お供は青に金のスリッパである。
「お坊さん」という商売はコスプレに金がかかる。
1時間ほど、ふたりで読経の後故人を偲ぶ仏の教えなどお話があり、お坊さん退場。

さあ、精進落としである。
義母のすぐ年下の叔父の献杯の音頭で、「ナマグサモノ」を食すのだ。

ドッコイ氏の父方は全員下戸で、こちらはドッコイ氏にまかせ、私は「酒豪揃い」の母方のテーブルに着く。

案の定というかなんと言うか、呑んべえのハナシはおもしろい。
夫婦揃って禁煙に苦労しているハナシ、おばあさんの遺した畑に、最近はシカもイノシシもサルも出没して荒らして行くハナシ、ハクビシンが野生化して、土間のリンゴをかじられたハナシ。
オナカはおにぎりでいっぱいだがハナシは職業柄いくらでも入る。

義母が正月の百人一首の名人だったハナシ、本が好きで、叔父が義母の本棚からゲーテを拝借して、それを丸暗記していまの奥さん(たいそうな美人である)を口説き落としたハナシ・・・

朝鮮半島の大きな商家だった義母の実家が引き揚げるとき、
「女の子に何かあっちゃいけない」
というので、11才の義母は丸刈りにズボン姿で海を渡ったハナシ・・・

知らない義母の世界がどんどん広がる。

「信子さん、家で姉ちゃんの結婚式の時の写真探してみろ、すげえ美人だぞ。」

花嫁姿を想像して、私は義母がますます好きになった。


通夜の最後は、この地方では「食べ残し」は寿司でも煮物でもフライでもエビチリでも、郷土料理「鯉の筒煮」でも、折り詰めにして、ぼたもちといっしょに持って帰ることになっている。

「手が震えるから、ま、いいか」
と思っていたら叔母がいつのまにか「エビの寿司だけ」とか「刺身」とか4折取り分けてくれた。ありがたいことである。

喪主は入り口に行って、挨拶をし、香典返し(海苔とお茶)を手渡す。献花の花をばらした花束は、遠来の客以外はたいがい持って帰る。


最後にドッコイ氏とふたり、家へ帰って義母の遺影を飾る前に花瓶を置くので、ピンクの彩りの多い花束をふたつ選んで、長かった通夜と葬儀は終わった。

(続く)

死について・32016年04月15日 07:15

しかし、私は大失敗をやらかしたのである。
葬儀に何日かかるか分からないのに、持ち歩いている薬は2日分!
特に睡眠導入剤(銀のハルシオンのお世話になっている重症患者である)!
東京に取りにも戻れず、結局4泊5日の逗留の、「いつ眠れば効率的に動けるか」、チャンスは2度である。

抗うつ薬ととんぷくも2日分、これで「セレモニーの、喪主の『妻』」を演じなければならない。


「・・・・あとはだらだら、だな・・・・」

実家でゴロゴロ、だらだらだら~~~。
力を入れようにも、薬切れを起こして入らない。

家は駅から徒歩3分だけれど、駅前商店街もスーパーももうなくなっちゃって、何をするにも車が頼りである。私は運転ができない。
じっとしてるに限るよ、こんな時は。

喪服とバックはもう車に積んできてあるから、あとは礼装用の白ハンカチとか鼻炎の薬とか、みんなドッコイ氏に頼んで買ってきてもらう。(足首に力が入らず、自分で歩く気力もない)

一番いい形で、義母を送るのだ。

そのために、積極的にゴロゴロだらだらするのだ。

喪主の妻としては、はなはだ美しくなく、また頼りないが。
とにかく式の時だけ保てばいいのだ。

3日目の通夜の前夜、睡眠導入剤を飲んでやっと少し眠る。

昼間、あちこちにある公衆温泉のひとつに行って、体と髪を洗う。
(実はドッコイ家の母屋には風呂場がない。
「風呂小屋」は、もうかたむきかけて使用不能である。
義母は要介助のポイントを週二度、老人福祉センターでの介助入浴にあてて通っていた)
湯上がりに板場でフルーツ牛乳を飲んで、それはまるで子供時代向島の父の実家へ行って、そこはみんな内風呂のない下町で、銭湯へ行ったときのようで、
「あー、わたしお義母さんの葬式のためにはるばる長野に来て、今風呂上がりのフルーツ牛乳飲んでるんだわー」
と思ったら、しみじみ、自分の置かれている立場が身にしみてきた。

しかし、わたしは通夜の席でとんでもないことをしみじみ思い知らされるのである

(続く)

死について・22016年04月14日 11:57

深夜、たどりついた小さなセレモニーホールの裏口に車を止め、職員ふたりがかりで義母をおろす。
別の路を走ってきたドッコイ氏もタッチの差で着いた。

母の遺体を安置室に運び込む。といっても、まあクローゼット冷蔵庫、押し入れくらいしか広さはない。
その前に台をしつらえて、手早く鈴、線香などが台に整えられ、拝む。
「ああ、お義母さんは『遺体』になったんだな。」
と、実感がわいてくる。

斎場の空き時間がいつあるか、葬儀の日程の組み方が、夜が明けてからでないと分からないので、とりあえず預かってもらい、ドッコイ氏の実家へ向かう。
途中24時間営業の西友で朝ごはんのパンと牛乳を買い、財布を出して金を払う。
昨夕容態急変の電話を受け、とりあえずコンビニのコーヒーとサンドイッチをかじりながら長野へひた走って、高速はETC、病院も会計が開いていないので後日払いで、葬儀社の人へはもちろん後払い、長野で初めての現金の出番である。

(そして、『現金払いでないものの額の怖さ』というもの、「お寺、戒名、葬儀社」と、後日私たちは向かいあうことになる)

朝を待って親戚に電話。父方母方ともに兄弟の数が多いので、頼りになる叔父さんふたりに頼んでそれぞれ連絡を回してもらう。

病院が開くのを待って入院費の精算に。
81才だったので高齢者医療保険で、3週間近い入院も3万円ちょっと。
ガンの末期で「延命治療はしない」ということだったのだが、そんなもんかと思う。

人は死に時によって相場が変わる。

死に場所によっても、相場が変わる。

(ああ、都会であっさり死んで、あっさり18万9千円の火葬で天に昇っていった我が父よ、まことに、妻想い、娘想い、婿想いの人でありました)

が、義母が前回義父の葬儀の費用記録をきちんととっておいてくれたのと、近所に心やすい叔父が住んでいて、葬儀社にも寺にも立ち会ってくれたので、金のない、葬式ビギナーな私たちでもなんとかなった。

なにしろドッコイ氏は年度末のゴタゴタで学校の事務のバイトを3/31でクビになっており、それ以前の長い失業生活で、義母の遺した以外金がないのだ。
それはかなりまとまった額で、結局無事まかなえたのだけれど、葬儀ひとつとっても義父は地場産業の元偉いさん、義母は顔が広く、さらに親戚筋集めたらトンデモナイ『大葬式』になってしまう。

叔父のひと声「兄弟葬にしよう」で、地元での最安値が決まった。
叔父さん叔母さんだけ集めて、それでも夫婦揃えば総勢26名である。

斎場の空きがなく、「一日待ってお通夜」になった。
ここで、田舎の葬儀社は何を考えているんだか、料理(通夜振る舞い、火葬が済んでの軽食、精進落とし)はみな「7の倍数」なのである。中華と和食と郷土料理のミックスでコースになっており、おみやげにはあんころ餅がつく、という不思議さである。これで人数22名だったら、私たちは「6人分のあんころもち(1パック2個入り)12個」を持ち帰り、朝な夕なに食事代わりにするところだった。

しみじみ、叔父さん叔母さんの人数があってよかった。


とりあえず、義母の入居していた特養(特別介護老人ホーム)が、亡くなったら3日で部屋を空ける決まりなので、高原へ行く。


義母がお世話になったスタッフ、K丸さんと最後の書類会わせ。

前に入居していた(順番待ちで)、刑務所のような「個室幽閉老人ホーム」から移った義母を、特に
「まだ回復できる余地がある」
と見抜き、寄り添ってくださった職員。

「実は初めてお会いした時から大好きでした!」
「私もです!」
と別れ際に最期の告白。

この人がいてくれたから義母のホーム移転後飛躍的回復8ヶ月があった。
不随のはずの半身で、車椅子を『歩き漕ぎ』し、方向転換も可能になった。
義母の世界はどれだけ広がっただろう。
「屋外にでかけ、木の下のベンチでカレーライスを食べる」なんて開放感も味わったのだ。

K丸さんと私たちは戦友だ。

母が季節ごとに贈っていた新品同様の衣類やはいていない靴下など、遺したもののほとんどは無駄なく「長期入居者」などのサポートに使ってもらえることになった。
入った当初はいいもののだんだん身寄りが縁遠くなってゆく人など、需要はあるという。
タオル類も、名前が書いてあるので、バックヤード、サポート用に、ハンガーとハンガーラックも使ってもらうことにし、義母が数ヶ月前書いたという絵手紙を棺に入れるためバッグに入れて、あとは思い出のティーテーブルだけかついで帰る。

義母が「生きていた」ということは、使えるものを最大限生かしてもらうことで施設に生き続ける。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
懐の広いK丸さんに感謝しつつ、家に帰る。

(続く)

あくび2016年04月02日 20:54

義母の葬儀も終わり、長野から帰宅の日の昼間、横隔膜が縮んで呼吸が浅くなり、「高山病か?!」と思った。

実家、標高700メートル以上・・・(冷汗)

こんなとき、深呼吸より即効性のあるのは「あくび」。

ちょっとづつウォーキング2016年02月11日 14:53

1年間寝たきりでいたら脚がすっかり萎えてしまった。
昨日今日とウォーキング、バス停の間を2往復。
太ももの裏側が痛くなってきたので切り上げる。
歩幅が短く、ゆっくりとしか歩けない。
外に出られない酷暑が来る前に、筋肉を回復したいもの。

返す返すも残念(便秘編)2016年01月28日 10:01

ひどい便秘で朝効く下剤を飲んで眠ったのだが、爆睡してしまい便意をのがした。
あー、私のバカバカ!
今夜またやり直し、うう、下っ腹重い・・・

ヒロポンが合法だったころ2015年11月11日 17:54

父も薬局で買って徹夜勉強、肝心要の会場で爆睡こいてしまい、「あんなもんやくにたたん!」と後年言っていました。
ちなみに戦中の軍事雑誌を読むと、各種覚醒剤の広告の山でございます。
ヒロポン打って知覧から飛び立ったのか、片道燃料で爆薬積んで・・・・

手術・書類の山2015年10月02日 08:18

しかし、入院・手術となるとなんでこんなにたくさんの書類にサイン・ハンコが必要なのだろう。手術前に一山、直前に
「手術着使用書類」にまでまたサイン2枚である。
私、ドッコイ氏や自分がそんな身になったら、とてもついていけないわ。
ボケ老人になっちゃっていたりしたらどうしよう。

身の振りようもない(苦笑)

義母がガンだあ!2015年10月01日 07:23

3週間前から急に食欲がなくなって食べられなくなってしまった義母、なんとガンだった。
胃の出口(幽門)が急にふくれあがったがん細胞でふさがれてしまい、食べても十二指腸に消化物がいかないという。
で、入院して手術。
といっても心臓は悪いは、脳は萎縮しているはで全身麻酔で切って取り出すわけにも行かず、内視鏡手術に。
「ステント」という、幽門に固定したらぽーんと広がるパイプでガン細胞を押しのけ、幽門を押し広げる、というもの。
で、手術のため今長野にいる。寒い(笑)。

おどろいたのは入院手術に必要な書類・ハンコの多さ。
手術着1枚使うにも書類にサインである。
私、後家さんになったら、病院で死ぬ覚悟できないわ。

おとつい血を吐いたそうで、まだしばらくは目が離せないけれど、
とにかく昨日手術は成功。

ドッコイ氏、ごくろうさまでした。