あくび2016年04月02日 20:54

義母の葬儀も終わり、長野から帰宅の日の昼間、横隔膜が縮んで呼吸が浅くなり、「高山病か?!」と思った。

実家、標高700メートル以上・・・(冷汗)

こんなとき、深呼吸より即効性のあるのは「あくび」。

トルコライス2016年04月05日 13:20

昨夜から「長崎名物『トルコライス』が食べたくて仕方ない。
ちゃんと、ソースでなくデミグラスソースがカツにかかってるやつ。

税逃れ、あ~あ。2016年04月09日 19:12

日本の大企業・富裕層はタックスヘイブンで世界第2位の巨額な税逃れ、庶民には消費税増税と社会保障削減。
日本でも数十兆円の未申告があるのなら、その額で消費税は消え、街中、保育園だらけになるはずだ。

死について・12016年04月14日 06:22

死について、少し書く。

長野の義母は夜中の1時40分に死んだ。
「容態が変わったから治療室に来てください」
と夜勤の若い看護師に呼び出され、休憩室からダッシュ。
体に取り付けた、脈拍・心拍・呼吸数を表すモニタがえらいことになっていた。
「今、夜勤の先生呼んできますので」

そこから(急患が入ったのだろう)医師登場までの数十分、私とドッコイ氏は義母を見つめ続けるしかなかった。

心拍数が、段々弱まってはハッとしたようにもちなおし、脈拍は測定不可能なほど弱く、エアマスクをつけた義母は、呼吸が浅いのか何度も「あくび」をする。


モニタの波形が平行線をたどることが長くなり、だんだん、義母は死んでいった。
最後に心拍数のモニタがパッとクラッシュして、それが最期だった。

普通は病室でいよいよとなると医師は
「ご家族の方ちょっと外してください」と言って、死の瞬間というのは家族に見せないものだが、こちらは看護師も医師もいないんである。
ドッコイ氏とふたりで最初から最後まで看取った。

人間は深く息を吐いて死ぬ。
次に息を吸う力がなくて、死ぬのである。
だからドラマなんかで、役者さんが死ぬシーン、あれはどんなに名優でもそのあとしばらくカメラが回っているので、肺に息をためている、あれは演技だ。

医師が小走りにやってきた。
モニタを見て、脈をとって、瞳孔を見て、時計を見て
「1時40分、ご臨終です」と言ったが、じっさいにはもっとはやく義母は死んでいるのである。ただ死亡診断書に記載の都合上、医師の確認がいるのだ。

よくニュースで山や海で「心肺停止状態で発見」された人はじつはもうとっくに亡くなっており、ヘリで病院に搬送して医師が確認をとるのである。

なにしろこの「死亡診断書」がなければお役所の「埋葬許可証」が出ず、お葬式が出せないシステムになっているのだ。
昔は「仮死状態であり葬儀の最中に息を吹き返した」なんて例があった。

だから日本では、死には
「念には念を」いれるのである。
医師の胸ポケットには常に小さな懐中電灯が入っている。
「瞳孔が開いているか」
サッと確認できるように。
職業というものは、ルールで成り立っているものである。

看護師に「お支度をしますので」と言われ、パジャマを着せるか、病院の売店の浴衣寝間着にするか問われる。
ピンクのパジャマでは棺の中で浮いてしまうと考え、寝間着を買う。
(のちに正解だったと知る)

死化粧というものは、看護師が手持ちのもので素早く済ませてくれるそうだが、大病院ともなると専門の化粧品もあるだろう。
最近日本では「エンゼルメイク」といって、遺族が最期の別れに化粧をする、そのキットを扱っている病院もある。1回分使い捨てであるが、なにせ死者に対する畏敬の念があるから安っちいものではいけないらしく、結構値がはるらしい。

看護師に「前であわせて、指は組みますか」と問われ、お願いしたら、結構力を入れてメキョメキョッと組んでくれた。死んだ瞬間から「死後硬直」との戦いである。

葬儀社の人が来て、書類を確認してシートのようなもので遺体をくるみ運搬車にのせる。
ドッコイ氏は車の運転があるので、私が同乗したのだが、道順にも決まりがあるらしく、遠回りでも旧街道をそろりそろりと進む。

真夜中の、田舎の旧街道というものは、古い家並みが残っていて、どこかへタイムスリップするような錯覚をおこしてしまう。

山中であるから、うしろ(というか補助席)に載っている私からは、シートにくるまれたとはいえ義母丸見えで、急な下り坂なんかでは頭バンとしきり板にぶつけたり、急な登りでは向こうにいっちゃったり、棺に納めるまでは「死体」というのは結構やっかいな「もの」だ。

話は変わるが昔死体をぐるぐる回しする「ハリーの災難」というヒッチコックの傑作ブラック・コメディ映画があった。
明け方にこれをポチポチ打っているのだが、また観たいな。

(たぶん続く)

死について・22016年04月14日 11:57

深夜、たどりついた小さなセレモニーホールの裏口に車を止め、職員ふたりがかりで義母をおろす。
別の路を走ってきたドッコイ氏もタッチの差で着いた。

母の遺体を安置室に運び込む。といっても、まあクローゼット冷蔵庫、押し入れくらいしか広さはない。
その前に台をしつらえて、手早く鈴、線香などが台に整えられ、拝む。
「ああ、お義母さんは『遺体』になったんだな。」
と、実感がわいてくる。

斎場の空き時間がいつあるか、葬儀の日程の組み方が、夜が明けてからでないと分からないので、とりあえず預かってもらい、ドッコイ氏の実家へ向かう。
途中24時間営業の西友で朝ごはんのパンと牛乳を買い、財布を出して金を払う。
昨夕容態急変の電話を受け、とりあえずコンビニのコーヒーとサンドイッチをかじりながら長野へひた走って、高速はETC、病院も会計が開いていないので後日払いで、葬儀社の人へはもちろん後払い、長野で初めての現金の出番である。

(そして、『現金払いでないものの額の怖さ』というもの、「お寺、戒名、葬儀社」と、後日私たちは向かいあうことになる)

朝を待って親戚に電話。父方母方ともに兄弟の数が多いので、頼りになる叔父さんふたりに頼んでそれぞれ連絡を回してもらう。

病院が開くのを待って入院費の精算に。
81才だったので高齢者医療保険で、3週間近い入院も3万円ちょっと。
ガンの末期で「延命治療はしない」ということだったのだが、そんなもんかと思う。

人は死に時によって相場が変わる。

死に場所によっても、相場が変わる。

(ああ、都会であっさり死んで、あっさり18万9千円の火葬で天に昇っていった我が父よ、まことに、妻想い、娘想い、婿想いの人でありました)

が、義母が前回義父の葬儀の費用記録をきちんととっておいてくれたのと、近所に心やすい叔父が住んでいて、葬儀社にも寺にも立ち会ってくれたので、金のない、葬式ビギナーな私たちでもなんとかなった。

なにしろドッコイ氏は年度末のゴタゴタで学校の事務のバイトを3/31でクビになっており、それ以前の長い失業生活で、義母の遺した以外金がないのだ。
それはかなりまとまった額で、結局無事まかなえたのだけれど、葬儀ひとつとっても義父は地場産業の元偉いさん、義母は顔が広く、さらに親戚筋集めたらトンデモナイ『大葬式』になってしまう。

叔父のひと声「兄弟葬にしよう」で、地元での最安値が決まった。
叔父さん叔母さんだけ集めて、それでも夫婦揃えば総勢26名である。

斎場の空きがなく、「一日待ってお通夜」になった。
ここで、田舎の葬儀社は何を考えているんだか、料理(通夜振る舞い、火葬が済んでの軽食、精進落とし)はみな「7の倍数」なのである。中華と和食と郷土料理のミックスでコースになっており、おみやげにはあんころ餅がつく、という不思議さである。これで人数22名だったら、私たちは「6人分のあんころもち(1パック2個入り)12個」を持ち帰り、朝な夕なに食事代わりにするところだった。

しみじみ、叔父さん叔母さんの人数があってよかった。


とりあえず、義母の入居していた特養(特別介護老人ホーム)が、亡くなったら3日で部屋を空ける決まりなので、高原へ行く。


義母がお世話になったスタッフ、K丸さんと最後の書類会わせ。

前に入居していた(順番待ちで)、刑務所のような「個室幽閉老人ホーム」から移った義母を、特に
「まだ回復できる余地がある」
と見抜き、寄り添ってくださった職員。

「実は初めてお会いした時から大好きでした!」
「私もです!」
と別れ際に最期の告白。

この人がいてくれたから義母のホーム移転後飛躍的回復8ヶ月があった。
不随のはずの半身で、車椅子を『歩き漕ぎ』し、方向転換も可能になった。
義母の世界はどれだけ広がっただろう。
「屋外にでかけ、木の下のベンチでカレーライスを食べる」なんて開放感も味わったのだ。

K丸さんと私たちは戦友だ。

母が季節ごとに贈っていた新品同様の衣類やはいていない靴下など、遺したもののほとんどは無駄なく「長期入居者」などのサポートに使ってもらえることになった。
入った当初はいいもののだんだん身寄りが縁遠くなってゆく人など、需要はあるという。
タオル類も、名前が書いてあるので、バックヤード、サポート用に、ハンガーとハンガーラックも使ってもらうことにし、義母が数ヶ月前書いたという絵手紙を棺に入れるためバッグに入れて、あとは思い出のティーテーブルだけかついで帰る。

義母が「生きていた」ということは、使えるものを最大限生かしてもらうことで施設に生き続ける。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
懐の広いK丸さんに感謝しつつ、家に帰る。

(続く)

死について・32016年04月15日 07:15

しかし、私は大失敗をやらかしたのである。
葬儀に何日かかるか分からないのに、持ち歩いている薬は2日分!
特に睡眠導入剤(銀のハルシオンのお世話になっている重症患者である)!
東京に取りにも戻れず、結局4泊5日の逗留の、「いつ眠れば効率的に動けるか」、チャンスは2度である。

抗うつ薬ととんぷくも2日分、これで「セレモニーの、喪主の『妻』」を演じなければならない。


「・・・・あとはだらだら、だな・・・・」

実家でゴロゴロ、だらだらだら~~~。
力を入れようにも、薬切れを起こして入らない。

家は駅から徒歩3分だけれど、駅前商店街もスーパーももうなくなっちゃって、何をするにも車が頼りである。私は運転ができない。
じっとしてるに限るよ、こんな時は。

喪服とバックはもう車に積んできてあるから、あとは礼装用の白ハンカチとか鼻炎の薬とか、みんなドッコイ氏に頼んで買ってきてもらう。(足首に力が入らず、自分で歩く気力もない)

一番いい形で、義母を送るのだ。

そのために、積極的にゴロゴロだらだらするのだ。

喪主の妻としては、はなはだ美しくなく、また頼りないが。
とにかく式の時だけ保てばいいのだ。

3日目の通夜の前夜、睡眠導入剤を飲んでやっと少し眠る。

昼間、あちこちにある公衆温泉のひとつに行って、体と髪を洗う。
(実はドッコイ家の母屋には風呂場がない。
「風呂小屋」は、もうかたむきかけて使用不能である。
義母は要介助のポイントを週二度、老人福祉センターでの介助入浴にあてて通っていた)
湯上がりに板場でフルーツ牛乳を飲んで、それはまるで子供時代向島の父の実家へ行って、そこはみんな内風呂のない下町で、銭湯へ行ったときのようで、
「あー、わたしお義母さんの葬式のためにはるばる長野に来て、今風呂上がりのフルーツ牛乳飲んでるんだわー」
と思ったら、しみじみ、自分の置かれている立場が身にしみてきた。

しかし、わたしは通夜の席でとんでもないことをしみじみ思い知らされるのである

(続く)

言霊の怖さ2016年04月16日 20:53

阿倍晋三首相は、「リーマンショックや東日本大震災級の災害が起こらなければ、予定通り消費税を10%にする。」と言った。
まさかこんな大規模な震災が起こるとは思わなかったんだろう。
言霊ってあるんだな。
めったな事は言えない。

死について・42016年04月17日 00:00

曹洞宗は、ちょっとかわった仏教だ。
お坊さんのお経の他に、信徒にも、教科書のようなテキストが配られて、長々、お経を唱えさせられるときがある。

通夜が、まさにそれだった。

ホールの葬段の前に大音声のお坊さん。
喪主の席の後ろに、席を並べて親族の唱和。

私は耳が悪い。
聴こえないときもあるが、鼓膜が常に緊張して、「異様に聴こえすぎるときがある」、通夜の席でそれが起こった。

前から後ろから大音響のお経の波。

私はすぽーんと「穴」に落ちちゃったんである。
「離人症(りじんしょう)」という。

聴こえるものもここのものであってここのものではなく、
見えるものもここのものであってここのものでない。

簡単に言うと「ホルマリン漬けの標本の容器、あの分厚い、出口のないガラスの器にスポンと詰め込まれちゃったような感じ。
その「離人症の発作」を起こしちゃったんである。

なんとかぎくしゃく立って焼香は済ませるが、通夜の後、親族から口々に
「大丈夫?」
と問われたくらいだから、きっとものすごい顔の色をしていたのだろう。

とにかく通夜を終えて家に帰った。
脚がもつれる。
手首がぶるぶる震えること中風の如しである。

父方の祖母にツングース系シャーマンの血が入っている私は、「引かれやすい」。
タダでさえ、目の前でその死の瞬間を見ている義母の葬儀である。

とにかくあるだけの薬を飲んで寝て、次の日葬儀に臨んだ。


葬儀の日、午前9時半集合。
最後の別れをして、棺桶にふたをする。
四隅を、親族の男性がオールステンレスのハンマーで、金色の釘をトントンと打つ。最後の仕上げは喪主の仕事で、ドッコイ氏が丹念に仕上げを打つ。

ここで霊柩車とマイクロバスに分乗して斎場へ。喪主は通夜の夜に授けられた戒名を書いた白木の位牌、喪主の妻は遺影を持って霊柩車に、また席はうしろ、義母のとなりである。
斎場はかなり急傾斜な山の中腹なのだが、さすがに棺桶は安定がよくきついカーブにも動かない。

斎場は公共施設である。A~Fまで6つの窯がある。
焼ける時間は1時間半、座敷で、自分たちで座布団を敷いて、叔父さん夫妻が持ってきてくれたペットボトルのお茶や、紙皿に取り分けた小袋入りの菓子などをわけて、待つ。

これも、葬儀社の予算に組めば、座布団敷きからお茶から、なんでもやってくれるのだが、予算の都合で割愛。
「骨が焼けた」と知らせが来ると、座布団を積んで、座卓を拭き、座敷の掃除機がけまで自分たちでやっていくことになる。
これは自治体によって違うのだろうが、義母の市ではいまだこんな具合である。
   
(続く)

死について・52016年04月18日 00:00

さて、骨上げである。
喪主とその妻から順番に、「ふたり箸」で焼き上がった骨を骨壺に収めていく。

ここで手首の痙攣が出て、私の持った青竹中節(ふつうの箸は上に節目が来るが、骨上げでは上3分の1くらいに節をつけた青竹の箸を使う)の箸はぶるぶる震えだしてしまうのだが、気づいたドッコイ氏がパッと手首をおさえてくれて、とにかく最初のくるぶし一片を骨壺に入れる。
あとは親戚任せである。

「あー姉さんやっぱりガンだわ、骨がピンク」
と叔母が言うので見たら、肋骨の内側が鮮やかな桃色に染まっていた。
病歴は骨にも出るのだろうか。
長い人生、いろいろな葬儀を体験していくと、見えてくるものもあるらしい。

最後、遺灰を集めるとき斎場の職員は「レレレの叔父さん」と化し、台車の上のお義母さんの遺灰をモウモウとちりとり箒で払い清める。
次に使用する人を乗せる状態にまで戻すらしい。
その場に並んだ兄弟一同ゴホゴホ咳き込み、70にして花粉症になった末の叔父など鼻粘膜がコーティングされ、鼻水の分泌が一瞬止まったほどだ。アビキョウカン。


マイクロバスでホールへ戻って、お坊さんが来るまでの間、昼食におにぎりと漬け物の大皿盛り。

朝食べなかったのと、とりあえず「下界へ降りてきた」安心感で、おにぎりふたつ、漬け物が、これがまた美味なこと、さすが長野は特産品である。
塩分が入って、体の中で滞っていた循環がはじまる。

午後、檀那寺の「殿様の菩提寺」からは、わざわざ総住職(年がいっているのでお経息継ぎ大変)と、年若のお供がひとり、これはよいノドで読経の肺活量も申し分なく、木魚、大小の鐘、鳴らしモノなど大活躍である。
総住職は緋色に金の錦のスリッパ、お供は青に金のスリッパである。
「お坊さん」という商売はコスプレに金がかかる。
1時間ほど、ふたりで読経の後故人を偲ぶ仏の教えなどお話があり、お坊さん退場。

さあ、精進落としである。
義母のすぐ年下の叔父の献杯の音頭で、「ナマグサモノ」を食すのだ。

ドッコイ氏の父方は全員下戸で、こちらはドッコイ氏にまかせ、私は「酒豪揃い」の母方のテーブルに着く。

案の定というかなんと言うか、呑んべえのハナシはおもしろい。
夫婦揃って禁煙に苦労しているハナシ、おばあさんの遺した畑に、最近はシカもイノシシもサルも出没して荒らして行くハナシ、ハクビシンが野生化して、土間のリンゴをかじられたハナシ。
オナカはおにぎりでいっぱいだがハナシは職業柄いくらでも入る。

義母が正月の百人一首の名人だったハナシ、本が好きで、叔父が義母の本棚からゲーテを拝借して、それを丸暗記していまの奥さん(たいそうな美人である)を口説き落としたハナシ・・・

朝鮮半島の大きな商家だった義母の実家が引き揚げるとき、
「女の子に何かあっちゃいけない」
というので、11才の義母は丸刈りにズボン姿で海を渡ったハナシ・・・

知らない義母の世界がどんどん広がる。

「信子さん、家で姉ちゃんの結婚式の時の写真探してみろ、すげえ美人だぞ。」

花嫁姿を想像して、私は義母がますます好きになった。


通夜の最後は、この地方では「食べ残し」は寿司でも煮物でもフライでもエビチリでも、郷土料理「鯉の筒煮」でも、折り詰めにして、ぼたもちといっしょに持って帰ることになっている。

「手が震えるから、ま、いいか」
と思っていたら叔母がいつのまにか「エビの寿司だけ」とか「刺身」とか4折取り分けてくれた。ありがたいことである。

喪主は入り口に行って、挨拶をし、香典返し(海苔とお茶)を手渡す。献花の花をばらした花束は、遠来の客以外はたいがい持って帰る。


最後にドッコイ氏とふたり、家へ帰って義母の遺影を飾る前に花瓶を置くので、ピンクの彩りの多い花束をふたつ選んで、長かった通夜と葬儀は終わった。

(続く)

死について・62016年04月19日 00:00

「おくりびと」という、「納棺師」と言う職業を描いた、優れた映画がある。(本木雅弘主演・第81回アカデミー賞外国語映画賞および第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞)。わたしはこれが好きでDVDで持っていて、何度も見た。

実は以前から「喪の仕事」には興味があって、いっとき、東京の専門学校の公開講座にも通った。
「正座が出来ない人は無理です」と聞いて、杖つきの身なのであきらめたが、もしかしたらわたしは葬儀関係の仕事についていたかもしれないのだ。

時間が空いたとき担当の若いお兄さんに観たかと聞いたら、
「一度観ました」
とのお答え。たぶん研修か何かだな、こんな鄙びた土地だもの。

通夜も終わって、印象的だったのは、精進落としの会場で、係のお姉さんがふたり、飲まなかったビールやウーロン茶をテーブルの上に、十列横隊に並ばせて、「・・・11,12・・・」と数をチェックしているところ。

飲み物は別料金なのだ、後で請求するのだ、間違いがあってはいけないのだ、これも立派に「喪の仕事」。


すべて終わって、ドッコイ氏と家へ帰る。
骨壺というのは重いもんである、とにかく安置して、前に遺影と白木の位牌を置いて、義父のときの花瓶が一組あったので花をいける。

終わった。

「外に出る役割」はみんな終わった。
礼服を脱いで、ハンガーに掛け(肩の辺りに骨粉がついているのを払う)、普段着に着替え、あぐらをかき、ドッコイ氏に
「お疲れ様」を言う。

氏は、香典と入院中の親族の見舞金の勘定で忙しい。
これから四十九日までに、金額相応のお返しをしなければならないのだ。
寺へも葬儀社へも、支払いはこれからである。
しかも現金払い。喪主は葬儀が終わってからも、気が抜けない。

こちらは気が抜けて、秘蔵のカルヴァドスのお湯割りを、折り詰めをサカナに、飲む。


翌日、寺へお布施(戒名代・その他)を納め、役所で手続きを済ませて、東京に帰った。

徒歩5分の母の家が、スペースがあるので遺骨を預かってくれるという。
助かった。(自宅は本と、書類の山=ドッコイ氏3月末まで自治会長)
冷蔵庫の上位しか、置き場所は無かったのだ。

薬切れの離人症は続いていて、手の震えが止まらない。
しかも、標高700メートル、心臓にも持病のあるわたしは気力・体力の限界、ここへきて横隔膜が縮んで呼吸が浅くなり、「高山病」になるのである。

車の助手席に体を押し込んで、後はキュウ、目がさめたら標高の低い神奈川へ来ていた。

しかし、あいかわらず脚はよろよろ、手はぶるぶるである。

母の家へ行き、玄関でお清めの塩をたのむ。
我が家系はそのテのことはまったくスルーで今日まで来たが、わたしの尋常でない様子に母はハッと気づいて、速攻で塩をまいてくれた。

骨壺、遺影、位牌を安置。
手際のよい母のこと、もうボヘミアングラスの水差しにカサブランカがこんもりいけてある。

義母はここへ落ち着いたのだ。

冷えて震える手のひらを、母の手が温かく包み込んでくれ、しばらくしたら震えが止まった。「引かれていた」わたしも薬を飲んで落ち着いた。
「喪」は終わった。


以上、思い出すままに、義母の死と葬儀の顛末を書いてみた。
読んでいるあなたが近しい人の「死」と向き合ったとき、何かの参考になれば幸いである。

(おわり)