納涼「真夜中の桃太郎さん・後編」2010年06月24日 20:10

大学から我が家までスクーターですっ飛ばして1時間。
夜明け前が一番寒い。ドカジャンの下に新聞紙をクシャクシャにしたのを何枚も着込んで、それでも冬の夜をひとりで走り切るには少し若すぎた。

母は体をうつぶせに固定したまま、胃液を吐くほど苦しんで、でも網膜の定着は失敗するかもしれない。一回でも寝返りをうったら気泡がずれてしまうのである。
毎日こちこちの石のようにこった背中をマッサージした。
「母のためなら、いざとなったら留年してもいいか。」
と思った。

父は自助努力をしないし、兄は消息不明だし、(ときどき母のところには顔を出していたようだが)卒制はどんどん遅れていくし、もう泣きたかった。
しかし、その頃の多摩丘陵は今よりずっと寒くて、走りながら泣くと涙がしもやけになってしまうんである。

私は泣く代わりに歌うことにした。
とっさに口をついて出たのは
「もーもたろさん、ももたろさんっっっっっ!」
自分でもビックリした。
「おっこしにつけたぁキビダンゴォォォォッ!」
住宅と畑と雑木林のど真ん中の1本道である。
「ひっとつぅわ〜たし〜にく〜ださいなぁ〜!っとくりゃッ!」

家までの途中に大きな団地の商店街があった。
もちろん真夜中だから街灯だけともって、シャッターは閉じている。一段高い歩道橋の上で、手袋をしても冷たくなる指を缶コーヒーで暖めながら一服するのがお決まりのコースだった。
目の前に広がる一直線の街灯とシャッター。
だけ。

「私は何者になれるんだろう。」

四面楚歌なのに、ふしぎとその光景は私に

「生きていけば何にでもなれるよ。」

と、語りかけてきた。

「自分自身に賭けてみろ。」と。

結局卒制は未完のまま審査を通り(冷や汗もの)、母は完治し、卒業式前の3月1日から私は働きだし、6月には過労による肺炎でひっくりかえる、というジェットコースターのような社会人生活が待っていたのだが。

ところで、エンジン音に紛れて歌は周囲に聞こえまいと長年信じていたのだが。
これが結構響くんですな、実は。
M市K町のみなさん、ごめんなさい。
んでもって、その後私は「世紀の大恋愛」に破れ(笑)
「ふ〜られちゃった、ふ〜られちゃった、ふ〜られちゃったよ〜ん♪」
などと大声で泣き笑いながらスクーターで全力疾走することになったのだが。
みーんな周囲に聞こえていたのであった、S町のみなさん、ごめんなさい。(笑)

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