逆さを見る2023年05月16日 11:49

ドッコイ氏はICUから出られて、まあしばらくは個室に雪隠詰めらしいけれども、とにかくヨカッタ。
ベッドの中で「自治会」がどうの(役員だ)「住民一斉草刈り」に出られなかったの言っているのだが、まあ、それはしばらくは諦めなさい。
ホントに律儀なやっちゃ。
三人にひとりは病院辿り着く前に死んじゃうというし、辿り着いたけれどダメでしたというケースも考えると、本当によくぞ命拾いしてくれたんだなぁと思う。いやはや、ラッキーだった。
ドッコイ氏が生きているというのは、私にとって本当に大事なことで、常日頃
「1日でいいから私より長生きしなさい。私を看取ってから死になさい」
と言い聞かせておるので、逆さを見なくて、あぁヨカッタ。

「逆さを見る」、つまり「先に死んじゃう」というのは、戦前の東京ではタブーで、親より先に子供が亡くなった場合最大の親不孝なので、親は葬式を出せなかった。
まあ、ウチは両親共に江戸時代からの「正真正銘江戸の人」なので、そんなせいかもしれないが。
じゃどうしたかというと、ご町内なり親戚なりが葬式を執り行う。親は一切ノータッチである。
母の妹が死んだのは、戦争で空襲が激しくなってから、駅前に住んでいて延焼を逃れるためにご町内一斉に「間引き疎開」といって、「全部空き地にするから住民全員立ち退きなさい」のその日、引っ越した晩であったという。
腸捻転だったらしいのだが、はっきり言ってもう戦争で医者どころじゃなかったらしい。
葬式を出そうにも町内会はその日の朝解散してしまって、親戚も戦争でそれどころじゃなくて、結局母の兄とまだ女学生だった母がリヤカーを借りて葬式を出すことになった。
焼き場にひいていったら、もう燃料がないんで薪を持ってこなければお骨に出来ないと言われた。で、昨日まで住んでいた家に行って(間引き疎開なので町内綱を張って立ち入り禁止である)憲兵に事情を話して、家の玄関やら廊下やらの板をベリベリと引っ剥がして、それをリヤカーに積んで焼き場に行って、これで火葬にしてくださいと頼んだという。
焼き場には「薪探し」で親族出払って、幼い兄妹がぽつんと付き添っている棺桶があって、その棺も板がなかったのだろう隙間だらけで、母親らしい女の人の長い黒髪がぞろりと覗いていた。
「ああ、今は本当に戦争の真っ最中で、東京はとんでもないことになってしまっているのだな」
と我が母が実感した一瞬だったという。
アニメ「火垂るの墓」は幼い妹を火葬にするために特別配給で炭をもらえて、あれはまだ「マシなケース」だったというのだ。
母の家は帝大(東大)生相手の下宿屋で、玄関や廊下を雑巾がけするのは子どもたちの仕事だった。一昨日まで雑巾がけしていたその床板を引っ剥がすのは、どんな気持ちだったろう。
「疲れたろうから、俺がひいてやるよ、乗りな」と兄に言われてリヤカーの荷台に腰掛けて、妹のとても小さい骨壷抱えている母はまだ14歳だった。
見上げる空は、夕焼けだったという。

というわけで、私はなにがなんでもドッコイ氏より先に死のうと思っている。
この年ではもう重量級のドッコイ氏の棺桶積んだリヤカーなんて、どう頑張ってもひけないからね。
葬式なんて、養女になった都合上やたら沢山いまくった親やら兄やらもう人並み以上に出したので、これ以上はまっぴらだ。
ドッコイ氏に看取られて死ぬのが、私の望みである。

ドッコイ氏、心筋梗塞2023年05月12日 23:09

いや、参った参った。
夫・ドッコイ氏がなんと心筋梗塞である。

朝4時に
「息苦しい、胸も痛い、狭心症かもしれない」
と、ゆすり起こされて、救急車で病院へ。
ストレッチャーのお世話にもならず自力で乗り込んだので、
「まあ、たいしたことないでしょ」
と思っていたら、さにあらず。
市民病院の救急搬送口にたどり着いたとたん、医師もナースさんも走っている。
いつまでたっても処置室から出て来ない。
やっと呼ばれたら、
「心筋梗塞の可能性が極めて高い(9割以上)なので、心臓カテーテルの手術をしたい。同意の書類にサインを」
と告げられえて、初めてことの重大さに気づいた。

ICU(集中治療室)送りである。
どうなるのかな。
とにかく医師から
「心筋梗塞の場合、3分の1は病院に辿り着く前に、自宅で、救急車の車内で亡くなります。ちゃんと病院にたどり着けて処置を受けられたのは、ラッキーでした」
と言われて、やっと、
「あ、私、未亡人になるか否かの瀬戸際だったのね~」
と気づいた。やれやれ。
還暦で後家さんにならずに本当にヨカッタ。

この先どうなるのかは分からないけれども、まあ、ドッコイ氏が生きているという事は、私にとってものすごく大切なことなので、腹を据えてやっていこうと思う。
人生ってまったく、何がおきるか分からないもんである。

兄弟感覚と夫婦感覚2020年05月18日 22:02

兄の死に際して、夫ドッコイ氏(一人っ子)に
「あなたは「兄弟感覚が分からない」んで…」
「そうです」
「…すね」を言う前に明快なお答え。

「でも夫婦感覚は分かるでしょう?」
「はい」

ああ、よかった。
これが分からなかったら離婚だよ。

ベランダ太平記・3「枇杷の木は残った」2020年04月29日 01:50

(「樅の木は残った」作者・山本周五郎先生に捧ぐ)

(続き)
さて、問題は枇杷である。
これはどんどん大きく伸び、茂る。
しかし、ドッコイ氏は枇杷の木を知らぬ信州育ち。
枇杷の名産は千葉、信州の名産はリンゴと杏と胡桃。
枇杷の実を買って食べた氏は
「コロンと大きくて可愛い種だなあ…」
と、そのままベランダへ出て、たまたま空いたプランターに指を突っ込んで穴を作り、種を入れて上から土をかけ、水をやった。
だけ。

そこが枇杷の思うつぼ!
知人のおうちに大きな枇杷の木があった。
「大きいですねー」
と言ったら
「ああ、それ5歳の時、私が縁側で食べて庭に種ペッとやったの。芽吹いちゃって伸び放題よ」
枇杷は侮れない。

しかし、ドッコイ氏が種を埋めたプランターは
「一年草の花を咲かせるための、浅い円盃形」
そこに、グングン伸びる枇杷、である。
2本の、高さ30㎝にもなった枇杷は、葉が大きく、風が吹くたびぐらつくので、根が土から持ち上がり、「不自然な自然の造形」となっている。
傾きまくっているのだ。

力士が四股踏んで片足持ち上げかけた、そう、あの姿勢。
図体はデカいが根が半分土の上に出て、風が吹くたび鉢の土がかき混ぜられて、鉢が載っているのがエアコンの室外機の上だったもので「土埃の嵐」、洗濯ものの天敵である。

「枇杷はあきらめましょう…」
私は鉢を風よけの日陰に移し、水やりを止めた。
自然に枯らせる作戦である。
それにドッコイ氏が異を唱えた。

「枇杷を枯らせないで」
「あのね、枇杷は地面に生える木なの。枇杷の盆栽ってないでしょう?ベランダでは無理なの」
「でもボクが目覚めさせた命だ。かわいそうだ」

あらあら。
「責任取ります」
ってか。
末摘花を大御殿に引き取った光源氏のようだ。

しかーし。
私はこのドッコイ氏の高貴なところにも惚れてしまっておるのよ。
しょうがないなあ、もう!

「じゃあ、ベランダで生かす手立てを考えましょう」
3日考え抜いて、
「大きなガーデンセンターに、コロナで外出自粛ムードですが、すいていそうな時間に一緒に行きましょう。そこで買うものがありますが、私は杖で持てませんので、あなた担いで車に載せてください」

買いました、テラコッタの内幅24㎝・深さ24㎝の寸胴大鉢。それとゴロゴロした竹炭一袋。
買って帰ってふたりで作業。
といってもドッコイ氏はこんなの未体験だから、私が指導。

鉢の底穴にネットを引いてゴロ土と竹炭を水はけを良くするために8㎝。上に再生園芸土にゴロゴロ竹炭を混ぜたの。
腐葉土だと葉の部分が崩れて土が沈下してしまうのと、ゴロ竹に根が当たって、衝撃で分岐する「根張り」を計算したわけだ。

かなり深めに植え、土をかぶせ、枯れ始めた下葉を除く。
根元をしっかり、手のひらで土を押さえ、活性剤入りの水をたっぷり。これで風をよけてしばらく様子を見る。
先端の芽は、これから真っ直ぐ上に伸びられても困るので、こんもり仕立てるために剪定ばさみでカット。

ドッコイ氏は根元を手のひらで押さえるのも初めて、芽をカットする作業を何の意味があるのか分からず、不思議そうに見ている。
それを植物学的理論でとことん説明。
納得した様子。

で、1日終わり。

翌朝。朝ご飯の支度をしていたら、氏は
「いや、私はもう『観察者』ですよ…」
ちょっと待て、ドッコイ!

あれは「あなたの枇杷」なんです。
私は過去の園芸知識を生かしてお手伝いしただけ、あれはあなたの「命」なんです。
責任取ってください。

ベランダに枇杷の大鉢なんて、体力の無い私には手に負えんわ!

ああ、「みどりのゆび」の作者・モーリス・ドリュオン先生お願いです、ドッコイ氏に「みどりのゆび」をお授けください。
忌野清志郎がなぜ
「愛し合ってるかい?」
と死ぬまで叫び続けたのか。

枇杷もあなたを愛してるんですよ、あなたの命を愛しいと思っているんですよ、この種を超えた「相補性(コンプリメンタリー)」がなければ「園芸」は成立しない。

美しい鉢や苗に魅せられ、よいとこだけ取って、あとはメモワールとしてコンプリート箱に詰め込んでいては、植物の命の残骸の「カラ植木鉢」が増えてゆくだけなのだ。

「園芸」とは「愛し合うこと」なのだ。

ベランダ太平記・2「新領主による荒土開拓」2020年04月28日 01:04

(「園芸家12ヶ月」作者・カレル・チャペック先生に捧ぐ)

(続き)
堕天使ルシフェルが世界に降臨しようとしたそのとき、私には奇跡が訪れた。
大天使ガブリエルが乙女のもとに舞い降りて
「アヴェ・マリア」
と告げたようなものである。

じゃない。

新しい薬の処方が劇的に効いて、長い寝たきり生活から復活したのである。

これには驚いた。
三十代半ばで
「今すぐ入院しないと、あなたは死ぬかも知れない」
と医師に言われてから、公的支援を受けて薬飲んで、ずーっと曇りか雨か嵐か、晴れても夜だったのだ。(それでも介護して親5人看取って、仕事も出来るまでは続けたが)
それが朝目覚めたらパッと
「晴れときどき曇り」
になっていた。
薬が手放せないとはいえ。

まずは台所に立って、包丁握ったりコンロに火をつけてみたりした。
次に洗濯。最初は室内干し。
洗う量が増えたのでベランダに出たら。

あらまあ。

私、瀧廉太郎先生の気持ちが突然分かったんである。
そこは「荒城の月(昼間だけれど)」の世界であった。
写真で言えばパリのウージェーヌ・アッジェ。
「廃園」だったんである。
積んであるプランターと転がっている植木鉢の数々、エアコン室外機の上に大鉢ふたつ。
息をしているのは「いちご」と「ブラック・ベリー」
あと何か分からん枝が芽吹いているのと、緑の葉で棘があるの。そしてなぜか、今にも引っこ抜けそうな枇杷。

私の眠れる「みどりのゆび」がウズウズと疼きだした。

「さぁ、なんとかしなくちゃ!」
9歳児と7歳児と5歳児と3歳児抱えるお母さんがリビングでつぶやくセリフかもしれない。
私は腕まくりした。

そしてドッコイ氏に宣言した。
「今日からベランダは私の陣地です。」

芽吹いたものと緑のものには「目覚め肥」を少しと、土壌改良剤(新聞広告で取り寄せた)を少し加えた水をやった。
下葉の枯れたのと先芽の枯れてしまったのは取り除き、伸びすぎたものは剪定し、枝を誘導し、日差しに向けて鉢の位置を変えた。

こぼれ種で芽吹き、支柱も無いままうろうろと地を這い枯れてしまった朝顔は、水をやらず土を良く乾かしてから、根っこから引っこ抜いた。
土に根や枯れ茎を残してはならぬ。
枯れ葉と一緒にみんな「燃えるゴミ袋行き」。
土に混じってボロボロに劣化しているスーパーの袋(風よけにでも使ったか)も、養分・空気・水分の通りを悪くするので根気よくつまんで取り除いた。

ゴロ土は鉢底へ、細かい土は腐葉土と苦土石灰と竹炭とバーミキュライトを混ぜ合わせ、水をやって細菌の力で生き返らせた。

それを鉢やプランターに戻して、サラダ菜7種や細ネギ、大葉、葉大根などの種を蒔いた。
ベンジャミン、パキラ、パセリ、ローズマリー、スミレの苗を買ってきて、鉢に移した。
ミニバラとアイビーも買った。
まだ埋まらないプランターと鉢のために、二十日大根、にら、ルッコラ、バジルなどの種をそろえて、これはGW開け、もう少し温かくなってから蒔く予定。

で、芽吹いていたり緑だったりしたものの正体をドッコイ氏に聞いたら。
「リンゴ食べたんで種」「夏みかん食べたんで種」「枇杷食べたんで種」「桑の木の前通ったら剪定してたんで、落ちた枝拾ってきて挿した」
以上全部氏の食欲と関係のある物件であることが判明。
この鉢の大きさでは、リンゴや夏みかんが実ったら頭でっかちで確実にひっくり返る。
が、桑くらいだったら何とかなるか、野生の桑の実摘んでジャム作ったこともあるし、今や「マルベリー」とかいって、ちょっとしたブームだし、ま、いっか。

しかし枇杷は…いくら何でもねえ…

そこでドッコイ氏と私との間で一悶着あるのである。

(まだ続く)

ベランダ太平記・1「領主交代の日」2020年04月27日 07:00

(「台所太平記」作者・獅子文六先生に捧ぐ)

私は物心ついたときから団地生活。
しかし両親は文化的な人で、読書、レコード、料理は手作り、服もセーターも母の手縫い・手編み。
そしてベランダには植木鉢と(まだプラスチックの四角いプランターがない時代である)火鉢を「睡蓮池」にみたてた金魚たち…私は水やりを手伝ったり、きれいに咲いた花を眺めながらひなたぼっこしたり、夏の朝、咲いた朝顔の花の数を数えたり。
両親は後に、組み立て式のガラス温室で洋ランやサボテンまで育てていた。

私は大学で日本画を学んでいて、植物を描くのは基本中の基本、20才で同じ団地の5階に1人暮らしを始めると、ベランダにいろいろな野菜やハーブや花の種や球根、苗を買ってきては育てていた。(食べるためと写生のため)
養母の介護で横浜に引っ越すので全部手放したが。

そう、私は「みどりのゆび」の持ち主なのである。

比べて夫・ドッコイ氏は小学校でも朝顔などの「植物を育てる」という授業がなかった。
山深い信州、どの家の子も「知っててあたりまえ」(田植え休みがあった)なうえに、先輩の代で都会から来た先生が大失敗をやらかしているのである。

学校でひとり1鉢「へちま」の種をまき、育てた。夏休みに各家に持って帰って、庭におろして観察日記をつけるように…
さあ、夏休み初日「緊急連絡網」である。
「へちまは今すぐ引っこ抜いて、捨てなさい!」
各家で植えているきゅうりと交配して、貴重な夏野菜が「苦くなってしまう!」ということに、農家の親が気がついたのだ。

と、いうわけでドッコイ氏は
「植物栽培に関しては真っ白」
であった。

サラリーマン時代は海外出張族だったし、出張がなくても日本で朝星夜星、今の団地に引っ越して、会社を辞めて、失業保険で食いつないだり、公務員補助のアルバイトをしたり、それが4ヶ月ごとに1ヶ月強制的に休まされるので「日給5千円で無収入期が入る」ので辞めたり…(今は病院勤務で安定しているが)の間に、自分の時間がたっぷりあるとき、何もないベランダに降り立ち、ふと
「あ、何か植えてみよう」
と思い立った。
私は病気で、園芸どころではなかったので、氏にまかせていた。

氏はガーデンセンターに車で行って、大きな鉢・プランター・土・季節の種や苗などを買って来た。
園芸本は買わない、氏の知識はインターネット頼みである。
それで、朝顔や、野菜などを育て始めた…のだが。

残念ながら失敗続きである。
ベランダに洗濯機を置く時代が終わって、水道栓がない。
夏は過酷な環境である、枯らしてしまうのだ。
私はまだ「国産銅製じょうろ」を作る職人さんがひとり残っていたので、注文してプレゼントしたのだが、なんとなく持て余している様子。
「先口」も使いこなせないで、種まき用の目の詰まりやすい方のみ使用、大きな目の先は台所の引き出しで眠ったまま。

いろいろやったが、収穫は大鉢に植えた「いちご」が季節終わりまで1日数個、ドッコイ氏が
「はい奥さん」
と流し台に摘んだのを洗って置いておいてくれる、といったところであった。

しかし、今年2月、異変が起きた。

なんと私が「長い寝たきり生活」から復活したんである。

(長いので続く)

ここでちょっと・昨夜の地震2020年03月13日 12:31

夜中の3時に地震があった我が町。洗濯ハンガーが落ちる音がして、こ、これはドッコイ氏直撃か!?と見たら、ギリギリセーフ、彼はスースーと寝息を立てておった。しばらくスタンドランプに浮かぶ寝顔を眺めていた。そうそう、これよ、この横顔よ、あのとき私が惚れてしまったのは… (苦笑)

で寝そびれて、寝坊して、こんな時間にカチャカチャ…

漫画家・小山田いく氏死去2016年03月25日 20:53

夫・ドッコイ氏の先輩。
代表作「ぶるうピーター」は高校が舞台だけど
実際は母校「長野高等専門学校(高1~大2までの5年制の技術者養成学校)」がモデルで、
「画面のあちこちに懐かしい学び舎が描いてある」
と、ドッコイ氏は目をキラキラさせて語っておった。

長野出身の漫画家って、このひとと弟さんの「たがみよしひさ(軽井沢シンドローム)」さんくらいしか、知らない。
北海道はざくざくいるのに。
同じ寒いところなのに、なぜかしら。

夫・ドッコイ氏クビ!どーなる我が家!?2016年03月25日 16:26

「年度末のゴタゴタがあって(本人弁)」
ドッコイ氏、3月末日をもって

「クビ決定」!

バイトだから退職金も出ないし、4月1日より我が家は無収入。

お義母さんはガンで半月以内に死ぬし、
今までその年金収入と老人ホームの「差額」を「バイト代では足りない生活費」にあててたのが、年金はなくなる、収入はなくなる、坂を転がるように貧乏の淵へ転がってくのが見える。
長野の家は電気切ると水道管凍結して破裂するしな、

「家2件もちの収入なし」

これは痛い・・・

誰かドッコイ氏を雇ってくれませんか、気は優しくて聡明で誠実な人です。

ただ2ヶ月に1度糖尿病で病院通い、その他睡眠時無呼吸症候群の通院、糖尿の眼底検査、と欠席がついて回るのがネック・・・「どうぞ休んでください」なんて企業、そうそう見つからないよね・・・

あんまりくたびれたのですぐには書けなかった2015年08月03日 09:04

一昨日の晩、もう寝ようという時刻になって、ドッコイ氏が「これから急用で長野へ行く」という。
そりゃ大変だと支度して、完徹して長野へ。
明け方着いた。
用事を済まして、昼間猛暑の中帰宅。
さすがにへばった。
年ねえ…