兄の始末2020年05月23日 01:23

兄を荼毘に付した。
遺体とは対面させてもらえなかった。
推定4月22日死亡・死因不明で、26日間発見されず、腐敗が進んでいたらしい。
ゴージャスな骨壺に納まった。
「いや、普通の骨壺でも…」
と言うと、
「こちらではこれが『普通』です」
とセレモニー業者。そうか、そうなのか。
「部屋の片付けをしたい」
「いや、業者に任せた方がいい」
と刑事さん。
そんなにすごい腐乱死体だったのか。
大家さんはこのようなケースに備えて保険に入っているという。
こうなりゃ手出し無用と、業者に託す。
遺された携帯電話にアドレスはなく、全てパソコンで管理していた様子。
「パソコンは手作りだよ」
と言っていたし、パスワードも分からないし、で、兄の交友関係への通知は諦める。
友達はいたようだが、記憶の彼方に消えてもらおう。

兄は遠い異国で突然死した。
そう思うしかない。

少し寂しいが、
「短くても自分の人生に満足していたのだろう」
と思わなければ、落ち着かない。
「心臓突然死」は私の遺伝の系譜だ。

業者処分で形見はなにも無い。

ただ、「私には兄がいたのだ」という記憶だけが遺産である。

兄は、確かに、そこにいた。
後ろ姿しか見られなかったけれど。

それを持ってして、良しとしよう。

兄のこと・ちょっと2020年05月20日 20:08

この「偉大なる兄」はなんと蔵書のためにトランクルームあちこち4つと契約を結んでいました。

女は自分の身を仕舞うものですが、男は死ぬまで「自分の陣地を広げよう」という本能のままに行動する生き物です。

やれやれ、後始末が大変!(苦笑)

兄・杉浦等・「裏」を知らないひとの悲しさ・中2020年05月20日 11:56

小学校5~6年、兄は教条主義者の担任に当たってしまった。「生徒は担任の言うことを聞いて一番」。
そこから兄は外れてしまった。しかも頭がいい。担任が
「今日の授業はここまで」
と思いもしなかったことを問う。
もはや「天才の彼」は「異分子」でしかなかった。
担任は暴君と化しヒステリックに彼を虐めた。

日に日に、顔色暗く帰宅する兄を迎えるのが辛かった。
「今日も学校でネチネチ虐められたのか…」

(ところが私は同じ担任に3年生を受け持たれているんである。成績は優の上。学級委員長。すごいえこひいき授業だった。恐ろしかった。ひとつご機嫌を損ねてしまえば大転落が見えている。なんとかして早く、この担任から外れたかった)

中学の私立受験に失敗し、市でも最低レベルの「谷底の中学に通い」兄はみるみるどん底に落ち込んでいった。
読み物は「「マルキ・ド・サド」や「毛沢東語録」「中原中也」「三島由紀夫」「永井荷風」、知性を持て余していた。
高校受験は最低の地元工業高校の、それでも「工業化学科」。卒業写真を見ると、兄以外は全員リーゼントの時代である。
恩師の計らいで昼間工業高校実験助手を務めながら、2浪して大学の夜学へ。勤労学生は、兄を含め2人しかいなかった。そこで史学を学んだ。正真正銘の「苦学生」である。

実験助手から正教員への採用試験(倍率二百倍)に受かり、生活は保障された。
だが、工業高校そのものが「コンピュータ高校に移行していった」時期である。「工業化学の先生」として生き延びるのは大変だったようだ。
最初は夜学、後に普通科の「化学教師」として、都内の高校を転々とした。労働条件は、良くは無かった。それでも年金がもらえる年齢まではなんとか勤め上げ、退職した。
年金受給までの年数、仕事をしているようだったが、いったい何の仕事なのかは母も私も知らない。

教員住宅すら、石原(バカ)都知事の「都職員を甘やかすな政策」により追い立てを食らい、近所のアパートへ引っ越している。公務員受難の時期である。(このときアパート契約の保証人に母がなったのが幸いした。電話番号が変わらなかったため、兄の家賃が振り込まれていないこと、警察と一緒に部屋へ入る承諾など不動産屋から受け取ることができたのだ。さもなければ兄の死は私たちに永遠に知らされなかっただろう)

生真面目な兄にとって、工業高校は生き辛い現場だった。
しかし、そのストレスをかわすために、兄は「いけない手」に出た。

「合法薬物の過剰摂取」である。(続く)

兄・杉浦等・「裏」を知らないひとの悲しさ・上2020年05月19日 01:01

兄、杉浦等について、覚えていることを書こう。

私の兄に対する最初の想い出は
「なんでお前なんかがいるんだ!」
という冷たい抗議のまなざしだった。
以来私は三白眼でしか兄を知らない。
父、母、祖母、三人の寵愛を受けて育った兄は
「祖母の突然の死、未熟児だった妹への両親の関わり」
で、
「自分への愛を奪うもの」
としてしか妹を認識できなかったのだ。

妹がミルクを吐いた、それが臭い、というので彼は牛乳アレルギーになった。まったく彼の幼少時の不幸は「妹が産まれてしまった」事から始まる。

私はハタチまで、この人に「遊んで貰った記憶」が1回半しかない。それも「いやいや」。
「時間はあるし、両親は留守だし、しかたない、自分がつきあってやるしかないか」
という態度であった。
(後に発見された小学生時代の日記に「午後5:45に帰宅したら妹が心配していた。驚いた」とあったのが妹に関する記載の全てである)

兄は早熟だった。実年齢4歳差どころか、さらに10年上だった。たぶん「天才」だったのだろう。こと早熟さに関しては異様な頭脳の持ち主だった。
小学校2年生の時「夏休み、図書室の本を読みたいので毎日登校させてください」と学校に交渉し、承諾を得た。
図書室の百数十冊の偉人伝を読破した。
しかしそれは彼の人生にとっては大失敗であった。

エジソンは後に財団を立ち上げ「これは」と思う案件全部に特許申請して、いざ実用的特許が出たとき「残念でした、それはエジソン財団が特許申請済みです」という「特許のバイヤー」として成り立っている。
ディズニーはスタジオシステムを立ち上げたが、労働環境改善を求めた職員がストライキを起こしたとき全員を解雇している。
しかし杉浦等は小学校2年生レベルで「世界を学んでしまった」ため、栄光のその裏を知らなかった。知ろうともしなかった。

ただ栄光へ。まっすぐに生きること。

その兄を挫折に導く事件が起きた。

ウチの「刀剣」2015年10月15日 11:54

「刀剣女子」が騒がれているが、私は20年前、結婚の時兄から「懐剣」をもらった。
「知り合いの刀鍛冶に打ってもらったいいもの」だそうだけれど、兄よ、「いざとなったら自害しろ」と?
それとも「夫の寝首をかけ」と?

妻を娶らば…2013年12月31日 10:05

思い出したこの歌。調べたら出てきました。

1 妻をめとらば 才たけて
みめ美わしく 情けあり
友を選ばば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱

2 我にダンテの 奇才なく
バイロン、ハイネの 熱なきも
石を抱いて 世にうたう
芭蕉のさびを よろこばじ


3 わが歌声の 高ければ
酒に狂うと 人のいう
われに過ぎたる のぞみをば
君ならではと 誰か知る

4 げに青春の燃えわかぬ
もつれてとけぬ 悩みかな
君が無言の ほほえみは
見果てぬ夢の 名残かな

5 ああ青春の いまがゆく
暮るるに早き 春の日の
宴のもりの はなむしろ
足音もなき ときの舞 (与謝野鉄幹)

ちなみに私が思い出したのは替え歌
「妻を娶らば才だけで、見目麗わしくなく、情けなし」
だれじゃ、こんなんワシに吹き込んだんは!(笑)
(どうせイタズラ兄貴に決まっとる!)