世界の「彩」が…2020年05月01日 07:21

各地を巡回するサーカス団は、今どうかな?と考える。
サーカス芸人さんは「危険を伴う職業」だから、郵便局の簡易保険しか入れなかった。
身体的保険はあっても、失業保険はない。
巡回自粛の今、どうしているのだろう?

旅回り劇団、ネイリスト、ヨガ・ジムのインストラクター、美術・ 音楽・舞台関係者…
…みんな「自由契約」のはず…
…世界から「彩」が消滅してしまう…

今だからもう一度言うぞ、女性有権者たちよ!2020年04月06日 02:25

 日本の女性が投票する権利、すなわち「有権者としての権利」を獲得したのは、やっと戦後のことである。(アメリカは今年婦人参政権百周年にあたる)
 昭和20年8月に、あの愚かしい「太平洋戦争」が終結するまで、日本女性は「B級国民」だった。
「産めよ増やせよ」で、玉砕や空襲でどんどん減っちゃう日本の人口を、子供いっぱい産んで育てなさい、それが日本女性の勤めですと、国家から言われたもんだ。
 投票権もないし、夫婦の浮気だって、男はお妾さん(愛人)を持つのが「男の甲斐性」ともてはやされ、女の浮気や、家が決めた夫婦関係から目覚めた自由恋愛は、刑法で「姦通罪」に問われた。
 財産の相続も、当然女性に不利だったし、子供を抱えて未亡人(古い言葉だねこれも…「未だ亡くならない人」だってよ)になった場合、「家を継ぐために弟と結婚しろ、イヤなら子供をおいて実家に帰り『出戻り』として人生再スタートしろ」と舅・姑から宣言されたものだ。

 私の祖母、杉浦静は、平和主義者で平等主義者だったので、戦中、人口密集地「東京下町の商店街のおかみさん」だったのが、地域に乱れを起こさないための見せしめとして「天皇陛下の名の下に」特高警察に「非国民」の烙印を押され、追われて、死んだ。

 戦後の償いなど何もない。女であるから、非国民だから、平和主義者は、殺されてもその無念を歴史に刻まれることはなかった。

 私は、そんな祖母のひとり息子の父と、戦前東京23区の、めずらしく土地持ちの裕福な家に育ち、間引き疎開から焼け出されては転居すること3回、しまいにはもう住むところがなくて「焼け残った銭湯の石炭小屋」で両親兄弟肩寄せ合って生き延びた母によって、育てられた。
 だから、新聞やニュースによる情報を積極的に取り入れ、投票日には投票所へ行くふたりの背中を、当たり前に見て育った。

 しかし。ビックリしたのだが。同世代、後輩、投票には「当たり前に行かない」者が大多数だったのである。

 私が働いた少女漫画家のスタジオでは「投票日は遅刻・中抜けを認めます、さあ投票所に行ってらっしゃい!」という、優れたジェンダー学者でもある漫画家「ぬまじりよしみ」さんによって、投票は励行されていた。
(その頃少女漫画家大御所のスタジオは「1ヶ月タコ部屋」が当たり前で、「少女漫画家志望者」のアシスタントたちは「投票?何それ?」状態でハイティーンからミドルティーンまでを過ごしているのが現状だった。当時の少女漫画家及び予備軍は、大いなる「ノンポリ集団」であった)

 しかし「さあ、投票に行ってらっしゃい」というスタジオでサブアシスタントのSちゃんは、絶対行こうとしなかった。
「だって、私の一票なんかで、日本という国が変わるはずないもの」というのが、彼女の主張だった。それならば日銭稼いだ方がいいと。
 彼女は「胎内被曝2世」で被爆者手帳を持っていた。
「大いなる諦め」がそこにはあり、周囲も何も言えなかった。
彼女(大学の後輩だったのだが)は6年生になって、他の単位は足りているのに卒業論文を書こうとせず、中退した。
「奨学金」を踏み倒そうとした彼女に、後に夫となる婚約者が
「きれいな身になって、結婚しようね。どんな貧しい式でもかまわないから、ね」
と言ってくれ、奨学金を精算させたのはアッパレだった。
私はせめてもの結婚祝いに、と、地方の式場で「司会」を務めた。

 Sちゃんの夫は故郷の企業に勤めた。そこは地元の代議士さんと密接に結びついている、社長にお中元・お歳暮を貢いで当たり前、という前時代的なところであった。
 企業の「夏祭り」「代議士先生を囲む婦人の会」ともなると、美人で声が綺麗で人当たりの良いSちゃんには動員がかかり、ハイハイと出かけていって社長や先生のお隣で写真に納まり返らなければ、有能な夫といえどもクビである。
 その後夫は思うところあってその会社を辞め、今単身赴任、Sちゃんはしゃかりきに働いて娘3人を育て上げ、長女を東京の国立ナンバーワン大学に進学させて、さて、投票に行っているのかいないのか?

 「投票は国民の『権利』」というのは、国家の上成す者の立場から言って、である。
国民にとっては「投票は『国民同士の義務』」であり、それを「積極的に棄権」ではなく「なんとなく、なんとかなるだろうから、自分の票なんか『焼け石に水さ…』とほざいて放棄する者」は、国民として裏切り者である。国民としての「つとめ」を勝手に捨てて、それでも「日本国民でございます」とパスポート取って海外へ旅行して「イエス、アイアム、ジャパニーズ」とか言っている。お気楽なもんである。

 漫画家「ぬまじりよしみ」さんはアッパレだった。あるお昼時間、談笑タイムになって、Sちゃんが
「でも、しょせん今の政府は…」
と言いかけたとき
「お黙んなさい。投票に行かないあなたに、今の政府を云々する権利はないわ」
と断言したのである。(「ぬまじりよしみ」さんに関してはWikipediaやmixiなどでも取り上げられ、今現在Amazonで著作物の多くが入手可能なので、興味ある方はお調べ下さい)

 後に私は(プロだけど)アマチュア活動や、そのファンの女の子達の集団に「おばちゃんだけど、ごめんなさい混ぜてね」と参加するようになった時期がある。
 そこで、お茶会や飲み会の席で(なんせ雰囲気を読んでさりげなく主張するのは小学校から万年クラス委員長だった者の才覚であるので)
「女性こそ投票に行きましょうよ、どこの政党支持でもいいの、国民として投票所に足を運びましょう!」
と年下のお嬢さん(とはいえハタチ過ぎ)に啓蒙運動をしたわけだが。

「生まれて初めて投票所行きましたー!」
「それはエライエライ!」
「で、カッコいいから〇〇に投票しました、だって美人だし頭良さそうだし!」
「(オイオイ、それは極右の女だぞー!)」
「スクールドラマが好きだったんで、元女優の〇〇に投票しました、だって『スケバン役』だったから世の中斜めに見ることができるんじゃないかなーって!」
「(それは大きな右政党の『情婦役』だぞ、玄関先でチンピラに『おだまり!』って言うときのドスが効いているんだー)」

 でも、新聞読まないから選挙公報も目にしない、NHKの立候補演説もテレビ見ないで、スマホで、イイトコ取りの情報しか「つまみ読み」しなくて、それで
「社会全般に私は関わっている、ああ、私ってイイ女性日本国民!」
って、世間に知ったかぶりこいている女の子(もはや年は「子」どころではないが、いつまでたっても「私は女の子」のままである)に、
「いやいや、もっと深く世の中を知ろうとしたら、だね…」
とその先を示そうにも、
「貧乏子だくさんで、新聞代も受信料も払えません、私の世界はスマホとウワサ話だけです!」
と開き直られてしまう。やれやれ…

携帯大手が料金3ヶ月延滞を認めたのは、コロナショックで「情報遮断された愚衆」が暴動を起こさないためであり、当然「お国の依頼」によって、である。

 さて、次の総選挙、日本はどっち向くのか、18才からの若い投票層、もう最後かも知れないから「一票言いたいこと言わせて貰うぞ」の高齢者層、フリーランス、そしてなにより女性票がどう動くか、見物である。

ふぅ、やれやれ…

跨線橋の下のおじさん2015年11月05日 00:29

そのおじさんはこざっぱりした身なりをしていた。
しかし、冬の初めの午後1時、川と遊歩道をまたぐ跨線橋の下である。
悪くはない身なりだ、ヒゲも1〜2晩伸びたふう。大きな鞄をかかえて、段ボールを敷いて、日差しの中、ぽかん、とコンクリに背をもたれて座っていた。
心ここにあらず。

「あー、新人ホームレスさんだ」
と私は直感した。
何しろその頃私は駅近辺のホームレスさんを把握し、ホカロンやらポケットテッシュやら、なんやらかんやら配って回る「ひとりボランティア」だったのだ。
町中にホームレスがあふれていた、あのころである。

「おじさん、お金あるの?」
私は訪ねた。ズバッというのにかぎるのよ、こういうことは。
「・・・…お金は・・・・ある・・・・・」
かなりいい職に着いていたのが定年離婚か何かで、ホームレス入門、といった感じだ。(ホームレス歴も長くなると「お金はない」と言うものだ)
「なんでこんなとこにいるの?駅前にいかないの?」
「駅前にいたら警官にここへくるように言われた」
しかし駅から1・5キロ、水道もトイレもない。
景観の邪魔だから体よくおっぱらわれたってわけね。
「おまわりさんの言うことを聞く人は良い人です」っていうのね。

私は毎日歩いて駅前に行っていた。
本屋巡りと画材屋と、買い物。
決して裕福ではないのでバス賃往復380円の節約のために、1日往復7キロ歩いていたのだ。
私は駆け出しの漫画家で、「描くこと」と「世界を知ること」に夢中だった。

街へ出て買い物をした。
戻るとおじさんが、傾いた日差しの中で、あいかわらずぽかんとしている。
「おじさん、貼るホカロンいる?」
「いる」
「ポケットティッシュ、いる?」
「いる」
「おにぎり、いる?シャケとたらこ」(食べ物、というのが境界線である、「めぐんでもらう」になる)
「いる」
「ペットボトルのお茶、いる?」
「いる」
「フリーサイズの毛糸の手袋、いる?」
「いる」
「毛糸の帽子、いる?」
「それはいい」
あちゃー、冬は頭暖かくしてると風邪引かないんだけどな、ま、いっか。
私は毛糸の帽子をぽんとかぶって(値札は外してもらってある、手袋も)
「じゃ、さよなら」
と歩き出した。
「・・・・・」
ありがとうの声もなかった。

そんなおじさんだった。
2〜3日たったら姿が消えていた。駅前にもいなかった。
お金が尽きるまではホテル暮らしを決めたか、郷里にすがったか。
ま、ホームレスとしては甘っちょろい消え方だった。
冬が近づくと思い出す。

上背のある、やんごとなきハンサムなおじさんだった。
しかしその「ハンサム」には「苦労知らずの一流企業」の甘さも見て取れた。

いまは、あんな、ぽかんとした顔して、全財産もって日差しの中座り込んでいる人、いない。