納涼・「真夜中の桃太郎さん・前編」2010年06月23日 22:26

その年の学内就職課の貼り紙を見て、
「だめだ、こりゃ・・・」
とつぶやいた私。男女雇用均等法前夜で、しかも不況。
どのみち日本画ゼミの中島千波先生には
「漫画家になったほうがいいよ。」
と言われていたし。
貼り紙はウチのガッコウの校内清掃している会社、あと水晶玉製造所にレンタル額縁屋などなど。
そうよ、花鳥風月で卒業しても、ゴハンは食べられっこないもん。

で、しかも4年生は卒業制作(百号くらい)があって、追い込みともなるとみんな連日アトリエに泊まり込みである。
当時の多摩丘陵の冬はものすごく寒い。
日本画は定着剤にニカワ(つまりゼラチンみたいなもん)使うので、あんまり冷えると煮魚の汁みたいに煮凝り(にこごり)、ゼリー状になっちゃって使えない。
湯煎にかけてもだいたい4時前には描けなくなっちゃって、みんな古毛布にくるまって朝まで仮眠を取るか、アパートへ帰るか。

私は実家のすぐ近くに十畳(日本画はふだん床に寝かせて描くことが多いので場所をくう)+DKを借りていて、ドカジャンを羽織ってスクーターをゆるゆる運転しながら(スピード出すと寒いから)帰った。

そしたら母が網膜剥離になった。失明の危機である。

緊急手術を信濃町の慶応病院でやってそのまま身動きとれず入院、さて、実家には1・家事が何も出来ない父、2・その父と折り合いのつかない兄。卑怯者の兄は2日でひとりとっとと友人のところに逃げ込みやがって、結局私は朝父の面倒を見、昼間に都心の母のところへ行き、伏せたままの姿勢で(気泡の浮力で網膜を眼底につけるため、ずっと、うつぶせたまま)いる彼女の寝間着だティッシュだ、タオルだと持っていって持って帰り、夜また父のご飯だ風呂だ布団だ(あの頃は本当に身の回りのコトを何ひとつ出来ない人だった)、で、夜中に体感温度0度以下のスクーターフルスピードで学校のアトリエに転がり込んで卒業制作、というとんでもないスケジュールになっちゃったんである。
寒い寒い、どーする私。(続く)

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