「『戦』略広報課」っておっしゃられましても…ねえ…2024年03月21日 23:12

「東京都庁戦略広報課」からお知らせが来たのだけれども、「戦略諜報課」と読み間違えてギョッ!(苦笑)
いいかげん「戦略」って言葉やめてくれませんか?
「戦」って文字使うの、「家族そろって歌合戦」とか、それくらいにしといてほしいの…

ちなみにお知らせは「親子で行く楽しい東京スポット」でした。

どこが「戦略」よ…

白い切符2022年06月15日 04:31

ローマで地下鉄に乗ったのは、もう前世紀末のことだ。
不況も不況、もう国家破産するんじゃないかってくらいの不況のどん底で、イタリアは溢れる難民と失業者の群れでどうしようもなくなっていた。
道を歩くと難民の子供スリ集団がウロウロしていて、観光客の日本人、気が抜けない。
買い物しても、当時の貨幣リラ、小銭のコインが不足していて,細かいお釣りの端数はキャンデー1つ2つで渡される始末である。

地下鉄に乗った。
券売機で切符を買って唖然とした。
駅名も料金も記載されていない、ただの白い紙っぺらである。
だがそれでみんな平然として改札を通っていく。
日本の切符をご存じの方ならお分かりでしょう。
まず地紙に偽造防止の薄い印刷がある。そこに印字がある。それが交通切符。
しかし,なんにも無いんである。
ただの白い紙っぺら。
それで通ってちゃったんである、当時のイタリアって国は。

しかし。
ホテルに戻ってキヨスクで買ってきた「TVガイド」片手にテレビを見た。
新藤兼人監督・乙羽信子主演の映画「鬼婆」なんかやってる。
日本のアニメ「シルバニアファミリー」なんかもある。
で、ふとコメディー番組に目がとまった。
言葉はまるで分からない。
けれど、ものすごくおもしろい。
何と言っていいのか,間合いが絶妙で目が離せなくなっちゃうんである。
これがイタリアという国のセンスかと思った。
ああ、この国は大丈夫だ。たとえ今どん底だろうと。
案の定,今イタリアは大丈夫である。しっかり立ち直った。

日本は今とんでもない危機にある。
ものすごい額の国家赤字を抱えて,これで世界大恐慌とか大地震とか、来ちゃったらどうするの?与党の皆様よ、日銀よ。

でもまあ、駅の切符が白い紙で出ようが、立ち直れるときは大丈夫。
なんとなれば駅の自動改札は無条件で人を通すセキュリティー機能がある。
これは「駅の自動改札システム」を発明して特許取ったエンジニアの娘だから、自信を持って言っちゃう。
白い切符が発券されても,胸を張って改札を通りなさい。
互いにウソをつかない、信頼し合う、というルールの下に、日本人はあるのだ。
「日本でわざと財布を落とすと50回が50回とも返ってくる」
という実証実験をしたアメリカの学者さんがいたが。
守るべきモンを守ってりゃ、社会秩序は保たれるんである。

ただね。
無収入なのに「去年からコロナでこれだけ損益がありました」って申告して、「だから給付金下さい」って申告しちゃった人。
それはウソだから止めなさい、もらっちゃたら返しなさい。
みんなが納めた税金の、ウソつきドロボーだから。

マスクが届いた2020年05月28日 19:00

安部ノマスクがやっと届いた。
あんまり小さくって笑っちゃった。
問題は「ポスティングシステム」なんで、死んじゃった姑の家にも届くってこった。
いらん、て。
そんなの税金の無駄だって。

だけど「ポストのある家屋」には強制的に配達され、ホームレスには届かない。

この矛盾。

「自粛」の『粛』は「粛清」の『粛』2020年05月03日 12:48

「自粛」の『粛』という文字を見るとゾッとしてしまうのは「粛清」という言葉の恐ろしさを知っているから。

ちなみに読みは同じでも「粛正」という言葉は怖くありません。

ハンガリーのようにコロナの波にまかせて独裁政権誕生、流言に対する罰則法によってジャーナリスト・人権活動家の発言を封じ、選挙は非常事態終息宣言(独裁政権が行う)まで無し、「自由なき民主主義」になってしまうのは非常に怖い。

憲法記念日の今日、平和憲法の維持と、安倍総理の説く「改憲」が今の日本に本当に必要なのか、考えなければならない。

今年の憲法記念日は、重い。

コロナとTOKYOオリンピック2020年04月23日 23:03

総理も都知事も「ある日」までは
「オリンピックは開催します」
と繰り返しているだけで、感染対策も後手後手に回っていたのが、突然
「国家緊急事態です!」
へとチェンジした。

都知事は、昨日まで
「オリンピック一本槍!」
だったのが、突然
「総理よりも先手を打って、厳しく東京の機能を制限します!」
と女独裁者?のようになり、
「毎日変わるおしゃれな布マスクは『ご近所の方』が差し入れしてくれたものです」
と、ハートウォーミングな話題も欠かさない。
しかし毎日テレビで髪型見ていると、欠かさず美容室には行っているな、キチンとカットしてセットしている。
ヴィジュアルイメージは大切みたいだな。
(ヒトラーもチョビ髭は毎日カットしていた。)

もともと石原大馬鹿者都知事が毎回都税300億捨ててトライし続けて獲得した、
「金に汚れたオリンピック」
なのだ。
アメリカTV局の物言いで、酷暑まっさかりのコンクリートジャングルで国際スポーツ大会を開催する、というのが生物学的に無理。

もうオリンピックは南半球にまかせよう。
コロナ後の国の立て直しの混乱と困難を考えると、
「今こそオリンピックはきっぱり返上すべき」
だと私は思う。

「十万円、私は申請しません」などと2020年04月21日 15:31

官房長官たるもの
「十万円、私は申請しません」
などと言ってはいけない。
「私も一国民ですから申請します。
そして今回のコロナで困っている人たちに寄付します。
寄付先はこれから熟考します。」
というべきだ。

「政治家は『特権階級』で偉いのだ」
と思い込んでいる馬鹿者が政治をやっている限り日本は前進できない。

村山富市氏が現役だったら、まだ終わらないこの数ヶ月の
「脱線転覆泣き笑いお茶の間政治劇場」
は、もっと短く鮮やかな名作になっていただろう。

心が迷ったときには
「戦後50年・村山談話」
を読み返そう。
戦後日本の政治がたどりついた大きな峰だ。

「戦後70年・安部談話」は「村山談話に美辞麗句つけたしてブヨブヨに水太りさせただけで、言っている安倍晋三本人は自分が何を言っているかその骨子を根本的に理解していない丸パクリ」なので読まなくてよろしい。
が、お暇な人は両方プリントアウトして添削すると、結構いいヒマつぶしには、なる。

政治家にはふた通りある。
「考える者」
(オバマ氏や独・メルケル氏や村山氏)と
「条件反射で答える者」
(トランプや安倍晋三はじめとする日本の多くの政治家、そして世界の多くの独裁的トップとその追随者)だ。

日本が、世界が、
「このままじゃいけない」
と思ったら、コロナで家待機しているいまこそ
「考えよう」!

なぜ「やまゆり園」から文明を説いたか2020年04月01日 03:05

 私は、分析者としてはかなり穿った「冷たい刃(やいば)」の持ち主だと自分で思いますが、思索の面においては「かなり熱い」のではないかな、と最近考えるようになりました。若い頃の自己確立のとき傍らにあったのが「萩尾望都」だったり、経験論哲学の「森有正」だったりしたのが根幹を成している、その延長線上に自分なりの人生のルールを築こうとしてきたから、ではないかなと、自分自身を振り返って感じます。
 考えることは、人生において「ぼーっとする=無駄な時間」ではありません。ぼーっとするからこそ、内面が深く掘り下げられるのです。
 1日の経験を通貨換算して「プラスマイナス」で幸福度を決定してしまう、「よく消費した、あるいは効率よく消費した1日=よい1日だった」と、金額換算して自分の幸福度を決定し続けることほど空しいことはありません。
 現在日本に見られる、キャッシュレスで「スマホで買い物して、スマホの機能で家計簿つけて」、それで「効率的な1日」を追求してしまう、人生をデータ化してしまうことの危険性は、文明の衰退期だからこそ大きいのです。

 「人生」は誰にとっても「物語」であるべきです。誰もが人生における「主役」であり「演出家」です。それは、どのような身体・精神・知的障がい者にとっても同等なことである、と私は考えます。だから「やまゆり園」の事件に立ち止まり、宮城まり子さんに思い致すのです。

 若い頃の私は、あまりにも貧しくて、自分自身の収入と消費の分析のために「エンゲル係数」まで計算していました。それは「漫画家」というフリーランスの人生を歩むために、絶対必要な「試練期」でした。
 しかし今現在の私は、経済的には困難ですが、エンゲル係数を計算しようとは思いません。信頼と経験の上で消費活動し、割引のパーセンテージは必要以上に求めないのです。「投げ売り名物のスーパー」に足を運ぶことは、意図して避けています。「今日一日で何円節約したか=一日の達成度」に換算してしまうことが、巨大資本主義産業・消費機構の日本において「危険」だと感じるからです。 
 コマーシャルでは「ペイ、ペイ!」と目先の割引率」が喧伝され、それに乗らない者は人生で損をしているよ、と、あざ笑うような風潮が見られますが、そんなもの「与党と経済関係者・金融関係者が勝手にでっち上げてマスコミに乗せたた『期限付き』の、『まやかしの幸福』」でしかありません。
 健全な消費は自己管理の延長線上に成立するもので、その「自己」とは「血の通った、思索する、そして自分自身の人生に『物語』を求める・一個人」です。
 
 確かに、ローンや育児を抱え、効率優先で目端の1円にこだわらなければならない時期も、誰の人生にも起こりうるものです。
 しかし、世界的共依存生産体系に生きる私たちですから流通の確保はもちろん大切ですが、自分の生活地域で生産・消費し、楽しみ尽くすことこそ、地理的に特殊な「人口の密な島国・日本」に生きる人間として、求められることではないでしょうか。
 地域に生活し、流通システムを健全・公平に維持し、その土地での経験を基として模索し、消費し、生活を営む。その健全性こそが、これからの、困難期の私たちに求められていると思います。

「困窮したときは自分から申請すること」2020年03月29日 22:31

日本の行政は「申請者保護」という制度をとっているため、窓口に出かけないとどんな制度があるかわからない。
たまにテレビニュースで「この番号へ電話を」と出ても、一瞬で消えてしまうし、障がい者や外国人は、とっさに筆記できないという基本的欠落がある。せめてテロップだけでも次のニュースにひっかけて残してくれれば、まだ救われるケースもあると思うのだが…

とにかく小学校教育の段階で「将来困窮したときは行政へ相談」と教えておけば、色々困る人も助かる道があると思うのだが。少なくとも義務教育の段階で。
裕福な家庭に育っても、地域のネットワークに守られていても、大人になったら、別の土地に移ったら、あたりまえにある「柱」はいきなりとっぱらわれるもので、そのとき「ひとり」で、さてこの困難に、どう立ち向かおうという時に、様々な免除や支援を受けられる可能性が、「国の制度」としてあるのだ、という事実は、なるべく早い内にインプットしなければならない。

「申請者保護」は、ある意味残酷だ。声を上げるすべを持たない層が黙殺されてしまう。
私の年下の友人は、いきなり幼子3人抱えてシングルマザーになったが、彼女を救ったのは遠方に住む福祉職の友人の「とにかく今すぐ『生活保護申請』しろー!」という一声だった。
真っ直ぐに育ち、真っ直ぐに働き、真っ直ぐに消費し、真っ直ぐに恋愛して子供を産んだ彼女は、夫がいきなり豹変して夫としての機能を放棄したとき、妻として、母として「シェルター」も「生活保護」も、知らなかったのだ。

「こんな不幸もある…ね、あぁ、コワイコワイ、ね、エンガチョですよね~♪」という民放の視聴率稼ぎのワイドショーを見ていただけでは、根源的救済の受付窓口まで辿り着けない。
小学校から「英語」とか「プログラミング」なんて、教育産業大手の口車に自民党が握手しているだけだ。
他言語認識脳は12~3才から活性化するものだし、プログラミングなんて、わたしゃ20歳の時、エンジニアの親父とふたりで液晶12行コンピュータ使って「サイコロ回して丁半賭博、1分で500回サイコロ転がして『ピンゾロの確率』を出すゲーム」を作っただけで終わりである。

わからんもんはわからんでいいのだ。

「みんなが100点満点取る社会」が「良い社会」ではない。
そんな小賢い国民だけで固めた未来の日本なんて、全然進歩性がない。
0点取る子もそれはそれでちゃんと「学んでいる」のだ。
その経験は大人になったとき「分からなくて困っている弱者に自然と手を差し伸べる才能」になる。
小賢く100点取った子も、就職先の大企業が倒産したりリストラに遭ったり、ローン地獄で自己破産したり、離婚したりして、「奈落」というものは万民に用意されている。
そのとき「行政の窓口に申請する」という行動をとれるか否か、で、
「人として復活するか野垂れ死にするか」
の命運は分かれる。

「困窮したときには、まず行政の窓口へ行こう!」
と、お子さんのいる「これを読んだ方」は、明日の朝、食卓でおっしゃいな。

いま夜の11時半だから、明日。ね。

言霊の怖さ2016年04月16日 20:53

阿倍晋三首相は、「リーマンショックや東日本大震災級の災害が起こらなければ、予定通り消費税を10%にする。」と言った。
まさかこんな大規模な震災が起こるとは思わなかったんだろう。
言霊ってあるんだな。
めったな事は言えない。

死について・12016年04月14日 06:22

死について、少し書く。

長野の義母は夜中の1時40分に死んだ。
「容態が変わったから治療室に来てください」
と夜勤の若い看護師に呼び出され、休憩室からダッシュ。
体に取り付けた、脈拍・心拍・呼吸数を表すモニタがえらいことになっていた。
「今、夜勤の先生呼んできますので」

そこから(急患が入ったのだろう)医師登場までの数十分、私とドッコイ氏は義母を見つめ続けるしかなかった。

心拍数が、段々弱まってはハッとしたようにもちなおし、脈拍は測定不可能なほど弱く、エアマスクをつけた義母は、呼吸が浅いのか何度も「あくび」をする。


モニタの波形が平行線をたどることが長くなり、だんだん、義母は死んでいった。
最後に心拍数のモニタがパッとクラッシュして、それが最期だった。

普通は病室でいよいよとなると医師は
「ご家族の方ちょっと外してください」と言って、死の瞬間というのは家族に見せないものだが、こちらは看護師も医師もいないんである。
ドッコイ氏とふたりで最初から最後まで看取った。

人間は深く息を吐いて死ぬ。
次に息を吸う力がなくて、死ぬのである。
だからドラマなんかで、役者さんが死ぬシーン、あれはどんなに名優でもそのあとしばらくカメラが回っているので、肺に息をためている、あれは演技だ。

医師が小走りにやってきた。
モニタを見て、脈をとって、瞳孔を見て、時計を見て
「1時40分、ご臨終です」と言ったが、じっさいにはもっとはやく義母は死んでいるのである。ただ死亡診断書に記載の都合上、医師の確認がいるのだ。

よくニュースで山や海で「心肺停止状態で発見」された人はじつはもうとっくに亡くなっており、ヘリで病院に搬送して医師が確認をとるのである。

なにしろこの「死亡診断書」がなければお役所の「埋葬許可証」が出ず、お葬式が出せないシステムになっているのだ。
昔は「仮死状態であり葬儀の最中に息を吹き返した」なんて例があった。

だから日本では、死には
「念には念を」いれるのである。
医師の胸ポケットには常に小さな懐中電灯が入っている。
「瞳孔が開いているか」
サッと確認できるように。
職業というものは、ルールで成り立っているものである。

看護師に「お支度をしますので」と言われ、パジャマを着せるか、病院の売店の浴衣寝間着にするか問われる。
ピンクのパジャマでは棺の中で浮いてしまうと考え、寝間着を買う。
(のちに正解だったと知る)

死化粧というものは、看護師が手持ちのもので素早く済ませてくれるそうだが、大病院ともなると専門の化粧品もあるだろう。
最近日本では「エンゼルメイク」といって、遺族が最期の別れに化粧をする、そのキットを扱っている病院もある。1回分使い捨てであるが、なにせ死者に対する畏敬の念があるから安っちいものではいけないらしく、結構値がはるらしい。

看護師に「前であわせて、指は組みますか」と問われ、お願いしたら、結構力を入れてメキョメキョッと組んでくれた。死んだ瞬間から「死後硬直」との戦いである。

葬儀社の人が来て、書類を確認してシートのようなもので遺体をくるみ運搬車にのせる。
ドッコイ氏は車の運転があるので、私が同乗したのだが、道順にも決まりがあるらしく、遠回りでも旧街道をそろりそろりと進む。

真夜中の、田舎の旧街道というものは、古い家並みが残っていて、どこかへタイムスリップするような錯覚をおこしてしまう。

山中であるから、うしろ(というか補助席)に載っている私からは、シートにくるまれたとはいえ義母丸見えで、急な下り坂なんかでは頭バンとしきり板にぶつけたり、急な登りでは向こうにいっちゃったり、棺に納めるまでは「死体」というのは結構やっかいな「もの」だ。

話は変わるが昔死体をぐるぐる回しする「ハリーの災難」というヒッチコックの傑作ブラック・コメディ映画があった。
明け方にこれをポチポチ打っているのだが、また観たいな。

(たぶん続く)