やあ!2011年06月17日 16:59

人さまのサイトで大笑い。
タイトルは「やあ!」
なごむなあ~。
ありがとうカーコさん!


「パラリンク」って…2011年06月17日 23:56

石原都知事が本日オリンピックの東京(中心)開催誘致を表明したわけだが。
「2020年のオリンピックとパラリンク…」って…
「パラリンピック」はこの人のボキャブラリーに入ってないのか?
「パラリンピック」はオマケか?
ボケたか?!

5月25日、母・芳子さんから私への交換日記2011年06月18日 17:24

「カボチャの苗が小さいポットの中で、日毎に成長していく姿を見て感動しました。
我が子も日々成長していく、そのたびに,この子は天才ではと何度も思いました。
その気持ちが無条件で子どもを愛し慈しむことができたのだろうと思います。
それなのに確さん(父)にはもっと慈しんで子どもに接してと言われました。
ええ、何故と思いました。
もっと手取り足をとり教え導いてということだったのでしょうか。
子どもなんて口で言っても本人に欲が出てその気にならなければダメだと思っていました。
「人の子の教育には熱心なのに」(母は小学校の教員)「自分の子は放っとく」とも言われました。
確かなことは、これが一番と思って接したことがいいとは言えないし、やり直しができないことが口惜しいことです。
この次私の子どもに生まれてきたら理想的な子育てをしてあげられるのに……でもその時は又同じことをして失敗したと思うことでしょう。
笑ってしまいますね。
野菜や花を育てて、あの小さい粒から葉が出て花が咲き実をつける…
何とすごいことか、天地の恵みを感じます。
確さんが自分で育てたじゃが芋の初収穫の時の姿を今でもはっきり思いだせます。」

退職後、父は三宅島に移り住み,焼き畑から初めて農業をやりだしていた。
科学技術者の彼も、農業では島の人に親切に手取り足取り教えてもらい、充実した十年を過ごせた。
じゃが芋の初収穫の時は、感動のあまり
「地面を掘ったら黄金がザクザク湧いて出たよ!」
と言っていた。

母(81才)と私(49になりました)はお互い交換日記をつけていて、月に一度くらい帳面を交換するのだが、最近私の周囲のの友人知人に出産、子育てと話題が出るようになり、子供のいない私もやっと母と「子育て談義」をできるようになった。

ちょうど6才、私が引っ越しで幼稚園を中退して家にいた頃、徒歩5分の小学校から母に「家庭科の産休」のハナシが来たのである。
校長自ら菓子折持って話しに来た,その頃は年配の教員と言えばみんな旧姓師範学校卒なので、ツーと言えばカー、退職した母がこの団地に越してきたことはみなさんご存じだったのである。

3年生の兄が、ヒステリックな教師と当たって、性格が変わってしまった頃だったので、私は学校が恐かった。
が、「のんちゃん,週2日だけどひとりでお留守番できる?」と聞かれて、背広にネクタイの年配のおじさんが頭下げているので,思わず「うん」と言ってしまった。

母は朝、腕をぶるんぶるん回して「さぁて、今日もあそんでくるか!」といって家を出て行く。
「お母さんの仕事は学校の先生なの?」
と聞くと
「仕事?私の仕事はガキ大将。学校へ子供たちと遊びに行くの!」
との答え。そのくせ女子師範を出て最初に受け持ったクラスの生徒たちがいまだに毎年同窓会に招いてくれるんだもの。
母は「二十四の瞳」の明るいバージョンである。

兄が生まれたときは祖母が在命だったので預けて働いていたが、4年後私が生まれたとき、未熟児で、もう祖母は亡く、母は兄と私の育児に専念するために職を退いた。
それからが母のお楽しみ育児ライフである。
「この世に生まれて子育てほど楽しいことはなかった」と母は笑う。
本当は兄も私も手のかかる難しい子供だったろうに。
「子育て」は、過ぎ去ってしまえばあっという間で,楽しい想い出しか残らなかったと笑いながら母は言う。
何度も言うが,この人の子供に産まれたことが,私の人生最大のラッキーである。

なんてこったい2011年06月20日 15:29

3時5分前の高齢者向き「みんなの体操」が変わっちゃった!
結構気持ちよかったのにー。
今度のはやたらステップワークが多くて、不安定な姿勢を保つなど、あんまり気持ちよくないし難しい。
3人のおねーさんがやっているのだが,以前は1人椅子に座ってやっていた。
しかも車椅子の人用の座ってやるバージョンが消えちゃったのである。
これは弱者差別ではないのか?
これ、国営放送、なんとか言いなさい!(怒)

ドラマは人の数だけある2011年06月20日 20:28

朝の連続テレビ小説「おひさま」を見ていたら、主人公の婚家の近所のおばちゃんに見覚えのある役者さんが出ていた。
あれは…見覚えがあるぞ…向田邦子の「あ・うん」「続・あ・うん」に出てた、フランキー堺の奥さんだ、岸本加世子のお母さんだ、誰だったっけな?
一日悩んだ末実家に電話、母曰く「ああ、吉村実子さんね」。
記憶力のカタマリである、教員時代は始業式の日の短い間にクラス全員の顔と名前を覚えた、どころか、女学生時代、道ですれ違ったなんの変哲もない男の人を
「あ、半年前に電車に乗っていた人…」
と、覚えていた自分が気味悪かったというのだからして。
この遺伝は残念ながら娘に引き継がれず、亡き父と同じ、「お顔もお名前も思い出せません病」の患者である、私は。

こんなときWikipediaは重宝で、司会者・芳村真理の妹であること、石立鉄男の元妻であること、映画「鬼婆」でブルーリボン助演女優賞をとったこと、久しく女優からは遠ざかっていたが「あ・うん」が本格復帰第一号作であること等々、わかっちゃうんである。
朝「おはよう」と声をかける近所のおばちゃんにも、ドラマはあるのであった。

家紋2011年06月21日 22:11




ウチの家紋は「丸に梅鉢」で、天神様、菅原道真と同じである。
あれ、本家には丸はなかったかな?
とにかく父がこの家紋を気に入っていて、勉学一筋の人であったから、よく
「いいか、ウチは菅原道真と繋がっているんだ、よく学べよ。」
と本家・菅原道真さんが聞いたら怒りそうなバチが当たりなことを酒が入ると上機嫌で言っていた。

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

好きな、飛梅(とびうめ)伝説の和歌であるが、道真が藤原一族の謀略で太宰府に左遷されるときに詠んだという。
梅は一夜で京の都から太宰府に飛んだ。

これも現代ではいろんなバージョンがあって「思いおこせよ」だったり「春を忘るな」だったりするのであるが私は「匂ひをこせよ」「な忘れそ」が好き。

以前上野のお山に美術展を母と見に行った帰り、上野の天神さまで
「そうだわ、お隣の玲子ちゃんが受験だわ、お守り買って帰りましょう。」
と参拝してお守りを買っていったら無事合格、えらく喜ばれた。
団地が、まだ棟割り長屋のようなおつきあいだった頃のことである。

さて、私の家紋は養女に行って「違い鷹の羽」になるのだが、これは奇しくも実母の家と同じ(わーい)、結婚したドッコイはなんと「六文銭」で 真田家と同じである。


私の同級生に「上○」というお嬢さんがいて(あえて伏す)
「ウチの家紋なんて頭来ちゃうわよ『○』に『上』なのよ、「マルコメみそ」じゃあるまいし!」
とブーたれていたのであるが、それはそれで分りやすくて書きやすくていいと思う。
世の中には「桜蝶」「桜蟹」なんて、とても難しい、描けやしない紋もあるのだからして。



ある結婚式場で「神宮司家・山田家」の案内看板を見たときには、私は「深い愛」を感じたのである。
私なんて横浜で結婚式を挙げたときは養母の名前「ツダ」で、長野で披露宴をしたときは、義父の「世間体があるから」のひと言で旧姓「スギウラ」だったんだぞー。


ああ、夏だ2011年06月22日 21:21

五月の末にベランダにカボチャの苗を植えた。
が、どうしたもんだか涼しいは雨追付きだはで、ウドン粉病と葉ダニとアブラムシの餌食。
なかなか成長しなかった。
本日東京31・9度。
一気に延びました。水やりも3べん。
このまま上手く伸びて下され、実って下されと、大鉢のカボチャに手を合わせて拝む暑い日。
明日も暑いそうな。
さあ、水やりだぁ!

キュウリの躍り食い2011年06月24日 04:15

この夏の節電対策に「キュウリ」を選んだ方々も多いだろう。
キュウリは「黄瓜」、完熟すると黄色くなる。
が、そうなる前に、放っておくととほうもなく大きくなる。
だってキュウリの98%は水だもの。
冷蔵庫であっと忘れていると、緑色の水になっている。
次から次へと大きくなって、チャペックの「園芸家12ヶ月」で「1日120コのハツカダイコンを食べ無ければならなくなった園芸家と同じである。
キュウリは手強い。
そこで提案、まだ小指くらいの、身の締まったキュウリを、朝方、庭に出てもいで食べるのだ。
もちろん小皿に盛った味噌、もしくはもろみをつけつつ。
これは早朝に限るし(日が当たるとキュウリがぬるくなる)夕方見ればキュウリはもう標準サイズに成長している。
早朝だから許される美味である。
「キュウリの躍り食い」これにチャレンジしてみる方、いませんか?(笑)

清水健太郎(年齢限定)2011年06月25日 06:45

まったくもってお恥ずかしい限りだが、私が6/16の「その名はゲイバー『砂かけばBAR』」で思い描いていた世界は清水健太郎の「失恋レストラン」の世界以外の何者でもない事が判明。
恐いね~芸能界と大麻・覚醒剤、の見本みたいな人だったけど、計算すると今頃塀の中なんだよなあ。
「ムー」と「ムー一族」が観たいぞ。
ちなみに清水健太郎はWikipediaで検索できます。華麗なる麻薬歴と芸歴で、けっこうなボリューム。

東京裁判傍聴券2011年06月26日 12:24

父の遺品を整理していたら、わら半紙にガリ版刷りの紙片がひらり。
なんと「東京裁判の傍聴券」であった。
一人っ子の父は二十代になりたて。
1930年生まれ、終戦の時15才。
戦中に母を失い、特高警察に目をつけられ逃げ回っていた父親はあてにならず、十五まで少年「スギウラ確さん」は東京の下町で、昼間は上野中学に通い、夜は近所の家の壊れたラジオ修理などしながら生きていた。
あの忌まわしい戦争とは何だったのか、自分なりに見届けたかったのだろう。
それにしても、二十歳そこそこで「裁判を傍聴しに行こう。」という意志を持てるなんて、やっぱり人生7掛け論ではないが、(実年齢×0・7=現代人の精神・肉体年齢)若かりし頃の父母の世代はすごい。