5月25日、母・芳子さんから私への交換日記2011年06月18日 17:24

「カボチャの苗が小さいポットの中で、日毎に成長していく姿を見て感動しました。
我が子も日々成長していく、そのたびに,この子は天才ではと何度も思いました。
その気持ちが無条件で子どもを愛し慈しむことができたのだろうと思います。
それなのに確さん(父)にはもっと慈しんで子どもに接してと言われました。
ええ、何故と思いました。
もっと手取り足をとり教え導いてということだったのでしょうか。
子どもなんて口で言っても本人に欲が出てその気にならなければダメだと思っていました。
「人の子の教育には熱心なのに」(母は小学校の教員)「自分の子は放っとく」とも言われました。
確かなことは、これが一番と思って接したことがいいとは言えないし、やり直しができないことが口惜しいことです。
この次私の子どもに生まれてきたら理想的な子育てをしてあげられるのに……でもその時は又同じことをして失敗したと思うことでしょう。
笑ってしまいますね。
野菜や花を育てて、あの小さい粒から葉が出て花が咲き実をつける…
何とすごいことか、天地の恵みを感じます。
確さんが自分で育てたじゃが芋の初収穫の時の姿を今でもはっきり思いだせます。」

退職後、父は三宅島に移り住み,焼き畑から初めて農業をやりだしていた。
科学技術者の彼も、農業では島の人に親切に手取り足取り教えてもらい、充実した十年を過ごせた。
じゃが芋の初収穫の時は、感動のあまり
「地面を掘ったら黄金がザクザク湧いて出たよ!」
と言っていた。

母(81才)と私(49になりました)はお互い交換日記をつけていて、月に一度くらい帳面を交換するのだが、最近私の周囲のの友人知人に出産、子育てと話題が出るようになり、子供のいない私もやっと母と「子育て談義」をできるようになった。

ちょうど6才、私が引っ越しで幼稚園を中退して家にいた頃、徒歩5分の小学校から母に「家庭科の産休」のハナシが来たのである。
校長自ら菓子折持って話しに来た,その頃は年配の教員と言えばみんな旧姓師範学校卒なので、ツーと言えばカー、退職した母がこの団地に越してきたことはみなさんご存じだったのである。

3年生の兄が、ヒステリックな教師と当たって、性格が変わってしまった頃だったので、私は学校が恐かった。
が、「のんちゃん,週2日だけどひとりでお留守番できる?」と聞かれて、背広にネクタイの年配のおじさんが頭下げているので,思わず「うん」と言ってしまった。

母は朝、腕をぶるんぶるん回して「さぁて、今日もあそんでくるか!」といって家を出て行く。
「お母さんの仕事は学校の先生なの?」
と聞くと
「仕事?私の仕事はガキ大将。学校へ子供たちと遊びに行くの!」
との答え。そのくせ女子師範を出て最初に受け持ったクラスの生徒たちがいまだに毎年同窓会に招いてくれるんだもの。
母は「二十四の瞳」の明るいバージョンである。

兄が生まれたときは祖母が在命だったので預けて働いていたが、4年後私が生まれたとき、未熟児で、もう祖母は亡く、母は兄と私の育児に専念するために職を退いた。
それからが母のお楽しみ育児ライフである。
「この世に生まれて子育てほど楽しいことはなかった」と母は笑う。
本当は兄も私も手のかかる難しい子供だったろうに。
「子育て」は、過ぎ去ってしまえばあっという間で,楽しい想い出しか残らなかったと笑いながら母は言う。
何度も言うが,この人の子供に産まれたことが,私の人生最大のラッキーである。