「緊急連絡」顛末記2011年02月16日 20:43

大雪が降った。
ドッコイの故郷は長野の真ん中で、周囲を高い山々に囲まれて、寒いが雪は降らない。
天然フリーズドライ、高野豆腐と寒天の産地である。小学生はスキーではなくスケートを習う。
が、ひと冬に2~3度降ると、人の住むところとしては本州一の寒さであるからして凍って溶けず大騒ぎである。
義母が倒れたのはよりにもよって「その日」であった。

ドッコイは熱こそ出ないが偏頭痛で、早退して鎮痛薬を飲もうとしていた。
連絡が入り、車の運転で薬は飲めず、大雪の中長野までなるべく早く車を飛ばさなければならない。
私は、といえば不整脈の発作で、薬倍飲みでなんとかもっている有様である。

吹き付けるボタ雪は車窓の視界をさえぎり、中央高速の車線変更線が見えない。前をゆく車のテールランプだけが頼りである。
パウダースノーに変わった頃三台の除雪車の横列のしっぽにあたり、これは作業のためゆっくり運転なので、後続は大名行列状態。
いつもの倍かかって、とうに夜半を過ぎた頃家にたどり着いたが、駐車場が積雪で、降り続く中、明朝早くに雪かきして病院に行くには心もとない。
結局私がネットで調べておいたビジネスホテルに「ふたり六千円也」で素泊まりすることになった。
ホテルの有り難いのは駐車場の雪かきを夜明けに職員さんがしてくれることで、やはり家の駐車場に止めなくて「正解」だった。(左から3番目がウチの車)

公道は明け方に市が除雪してくれていたので、朝、すんなり病院にむかう。
お義母さんはもう起きていた。
左手が不自由なのに、右手の甲に点滴を刺されて不自由そうである。
早くに来てくれた叔母と、話をするが、医師の話を聞けるのは、午後、しかも何時になるか分からない。
ここまでで私は、泊まり込みが一泊では済まないかもしれないと用意した心臓薬をすでに3倍飲みしている。慣れぬ雪の中を転び転び歩き、息が続かないのだ。
結局昼食までいて限界が来て、先に電車で帰ることになった。
駅まで車で送ってくれた伯母と、冬だけでも横浜に建てる家に迎える準備があることなど話す。
聞けば、入浴も(義父が結露を嫌って浴室を母屋から離して建てており、しかも浴槽もすのこも高くて危険なので)彼女に週一回、入浴施設に連れて行ってもらっていること、寝室が2階なので階段が危険なこと、買い物も突然運転役の義父が亡くなり、親戚まかせとのこと。
思っていたよりも状況ははるかに悪い。

昼過ぎの電車で帰宅、ドッコイの連絡により脳血栓ではないことを知り、ホッとする。
おそらくは虚血性心筋症か、あるいは外科的な問題か、いずれにしても翌日退院になったという。
仕事のあるドッコイは戻るので、親戚に頼み、家まで送り届けてもらうことになるが、当分は週末、少なくとも二週に一度は通わなければならないだろう。
ドッコイは3月にまたカンボジア出張を控えているので、それまでになんとか、少しでも元気になってもらわなければ。

戦前朝鮮半島で生まれ、少女時代引き上げを体験して以来ずっと長野で今日(こんにち)まで暮らしてきた人である。
土地を離れてはそれまでの生活も人間関係も全て失ってしまう。
義母を長野から離すわけには(たとえ冬の「殺人的な」寒さの間だけは横浜にステイしてもらうとしても)いかない。

幼い頃「死人(しびと)は呼ぶよ。」と私にささやいた、心ない大人は誰だったか。
呼ばせてなるものか、大切な義母である。

しかしどうして生活エピソード多いのかな、私たち。

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