死について・12016年04月14日 06:22

死について、少し書く。

長野の義母は夜中の1時40分に死んだ。
「容態が変わったから治療室に来てください」
と夜勤の若い看護師に呼び出され、休憩室からダッシュ。
体に取り付けた、脈拍・心拍・呼吸数を表すモニタがえらいことになっていた。
「今、夜勤の先生呼んできますので」

そこから(急患が入ったのだろう)医師登場までの数十分、私とドッコイ氏は義母を見つめ続けるしかなかった。

心拍数が、段々弱まってはハッとしたようにもちなおし、脈拍は測定不可能なほど弱く、エアマスクをつけた義母は、呼吸が浅いのか何度も「あくび」をする。


モニタの波形が平行線をたどることが長くなり、だんだん、義母は死んでいった。
最後に心拍数のモニタがパッとクラッシュして、それが最期だった。

普通は病室でいよいよとなると医師は
「ご家族の方ちょっと外してください」と言って、死の瞬間というのは家族に見せないものだが、こちらは看護師も医師もいないんである。
ドッコイ氏とふたりで最初から最後まで看取った。

人間は深く息を吐いて死ぬ。
次に息を吸う力がなくて、死ぬのである。
だからドラマなんかで、役者さんが死ぬシーン、あれはどんなに名優でもそのあとしばらくカメラが回っているので、肺に息をためている、あれは演技だ。

医師が小走りにやってきた。
モニタを見て、脈をとって、瞳孔を見て、時計を見て
「1時40分、ご臨終です」と言ったが、じっさいにはもっとはやく義母は死んでいるのである。ただ死亡診断書に記載の都合上、医師の確認がいるのだ。

よくニュースで山や海で「心肺停止状態で発見」された人はじつはもうとっくに亡くなっており、ヘリで病院に搬送して医師が確認をとるのである。

なにしろこの「死亡診断書」がなければお役所の「埋葬許可証」が出ず、お葬式が出せないシステムになっているのだ。
昔は「仮死状態であり葬儀の最中に息を吹き返した」なんて例があった。

だから日本では、死には
「念には念を」いれるのである。
医師の胸ポケットには常に小さな懐中電灯が入っている。
「瞳孔が開いているか」
サッと確認できるように。
職業というものは、ルールで成り立っているものである。

看護師に「お支度をしますので」と言われ、パジャマを着せるか、病院の売店の浴衣寝間着にするか問われる。
ピンクのパジャマでは棺の中で浮いてしまうと考え、寝間着を買う。
(のちに正解だったと知る)

死化粧というものは、看護師が手持ちのもので素早く済ませてくれるそうだが、大病院ともなると専門の化粧品もあるだろう。
最近日本では「エンゼルメイク」といって、遺族が最期の別れに化粧をする、そのキットを扱っている病院もある。1回分使い捨てであるが、なにせ死者に対する畏敬の念があるから安っちいものではいけないらしく、結構値がはるらしい。

看護師に「前であわせて、指は組みますか」と問われ、お願いしたら、結構力を入れてメキョメキョッと組んでくれた。死んだ瞬間から「死後硬直」との戦いである。

葬儀社の人が来て、書類を確認してシートのようなもので遺体をくるみ運搬車にのせる。
ドッコイ氏は車の運転があるので、私が同乗したのだが、道順にも決まりがあるらしく、遠回りでも旧街道をそろりそろりと進む。

真夜中の、田舎の旧街道というものは、古い家並みが残っていて、どこかへタイムスリップするような錯覚をおこしてしまう。

山中であるから、うしろ(というか補助席)に載っている私からは、シートにくるまれたとはいえ義母丸見えで、急な下り坂なんかでは頭バンとしきり板にぶつけたり、急な登りでは向こうにいっちゃったり、棺に納めるまでは「死体」というのは結構やっかいな「もの」だ。

話は変わるが昔死体をぐるぐる回しする「ハリーの災難」というヒッチコックの傑作ブラック・コメディ映画があった。
明け方にこれをポチポチ打っているのだが、また観たいな。

(たぶん続く)

死について・22016年04月14日 11:57

深夜、たどりついた小さなセレモニーホールの裏口に車を止め、職員ふたりがかりで義母をおろす。
別の路を走ってきたドッコイ氏もタッチの差で着いた。

母の遺体を安置室に運び込む。といっても、まあクローゼット冷蔵庫、押し入れくらいしか広さはない。
その前に台をしつらえて、手早く鈴、線香などが台に整えられ、拝む。
「ああ、お義母さんは『遺体』になったんだな。」
と、実感がわいてくる。

斎場の空き時間がいつあるか、葬儀の日程の組み方が、夜が明けてからでないと分からないので、とりあえず預かってもらい、ドッコイ氏の実家へ向かう。
途中24時間営業の西友で朝ごはんのパンと牛乳を買い、財布を出して金を払う。
昨夕容態急変の電話を受け、とりあえずコンビニのコーヒーとサンドイッチをかじりながら長野へひた走って、高速はETC、病院も会計が開いていないので後日払いで、葬儀社の人へはもちろん後払い、長野で初めての現金の出番である。

(そして、『現金払いでないものの額の怖さ』というもの、「お寺、戒名、葬儀社」と、後日私たちは向かいあうことになる)

朝を待って親戚に電話。父方母方ともに兄弟の数が多いので、頼りになる叔父さんふたりに頼んでそれぞれ連絡を回してもらう。

病院が開くのを待って入院費の精算に。
81才だったので高齢者医療保険で、3週間近い入院も3万円ちょっと。
ガンの末期で「延命治療はしない」ということだったのだが、そんなもんかと思う。

人は死に時によって相場が変わる。

死に場所によっても、相場が変わる。

(ああ、都会であっさり死んで、あっさり18万9千円の火葬で天に昇っていった我が父よ、まことに、妻想い、娘想い、婿想いの人でありました)

が、義母が前回義父の葬儀の費用記録をきちんととっておいてくれたのと、近所に心やすい叔父が住んでいて、葬儀社にも寺にも立ち会ってくれたので、金のない、葬式ビギナーな私たちでもなんとかなった。

なにしろドッコイ氏は年度末のゴタゴタで学校の事務のバイトを3/31でクビになっており、それ以前の長い失業生活で、義母の遺した以外金がないのだ。
それはかなりまとまった額で、結局無事まかなえたのだけれど、葬儀ひとつとっても義父は地場産業の元偉いさん、義母は顔が広く、さらに親戚筋集めたらトンデモナイ『大葬式』になってしまう。

叔父のひと声「兄弟葬にしよう」で、地元での最安値が決まった。
叔父さん叔母さんだけ集めて、それでも夫婦揃えば総勢26名である。

斎場の空きがなく、「一日待ってお通夜」になった。
ここで、田舎の葬儀社は何を考えているんだか、料理(通夜振る舞い、火葬が済んでの軽食、精進落とし)はみな「7の倍数」なのである。中華と和食と郷土料理のミックスでコースになっており、おみやげにはあんころ餅がつく、という不思議さである。これで人数22名だったら、私たちは「6人分のあんころもち(1パック2個入り)12個」を持ち帰り、朝な夕なに食事代わりにするところだった。

しみじみ、叔父さん叔母さんの人数があってよかった。


とりあえず、義母の入居していた特養(特別介護老人ホーム)が、亡くなったら3日で部屋を空ける決まりなので、高原へ行く。


義母がお世話になったスタッフ、K丸さんと最後の書類会わせ。

前に入居していた(順番待ちで)、刑務所のような「個室幽閉老人ホーム」から移った義母を、特に
「まだ回復できる余地がある」
と見抜き、寄り添ってくださった職員。

「実は初めてお会いした時から大好きでした!」
「私もです!」
と別れ際に最期の告白。

この人がいてくれたから義母のホーム移転後飛躍的回復8ヶ月があった。
不随のはずの半身で、車椅子を『歩き漕ぎ』し、方向転換も可能になった。
義母の世界はどれだけ広がっただろう。
「屋外にでかけ、木の下のベンチでカレーライスを食べる」なんて開放感も味わったのだ。

K丸さんと私たちは戦友だ。

母が季節ごとに贈っていた新品同様の衣類やはいていない靴下など、遺したもののほとんどは無駄なく「長期入居者」などのサポートに使ってもらえることになった。
入った当初はいいもののだんだん身寄りが縁遠くなってゆく人など、需要はあるという。
タオル類も、名前が書いてあるので、バックヤード、サポート用に、ハンガーとハンガーラックも使ってもらうことにし、義母が数ヶ月前書いたという絵手紙を棺に入れるためバッグに入れて、あとは思い出のティーテーブルだけかついで帰る。

義母が「生きていた」ということは、使えるものを最大限生かしてもらうことで施設に生き続ける。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
懐の広いK丸さんに感謝しつつ、家に帰る。

(続く)