美しい、クリアな眼球2020年03月10日 19:20

 「このような結果は、私が診察してきた中で、あなたが初めての人です」

 地元医師会の眼科トップ、穏やかな老先生が瞳を輝かせて、言う。
2020年3月4日、お昼前の、「コロナ騒動」ですっかり静まりかえったクラシッカルな眼科(でも検査設備は最新)診察室でのひとときである。

 眼科は常に心にひっかかっていた。駅前の流行っている眼医者、最終的には「新宿から乗り継で信濃町駅前慶応病院」につながる(母の網膜剥離はここで手術した)にかかったが、いつも混雑、たくさんのスタッフに「こんどはこちら」「こんどはそちら」と診査をぐるぐる回しされ、先生にやっと会ったら
「ドライアイですね、目薬受け取りに通ってください、はい終わりです。」
と、やっとの思いでこれっぽっちのお言葉、金何千円也を払って、わたしゃすっかりくたびれ果てた。
老人性ドライアイなんて誰でも通過するもんである。
…もう、目医者はいいや。

 そう思って、メガネは駅前メガネストア(国産レンズと国産フレームなので、それなりにお高いがスタッフが視力検査してくれる)にまかせてやって来た。目は商売モノであるから、レンズには張り込んだ。ドライアイは市販の目薬(これも高くつくが)で乗り越えた。

 が。今更ながら新聞読んでたら
「高齢化の今、日本人も四割が緑内障発症」
の記事。
ウィルス騒動で人出歩かないし、母芳子さんに聞いた近所で評判の名医、ひとつ総点検に行ってきますか~♪と出かけた。

 そして、まず診察室、である。
「この際だから、近視・乱視・老眼、網膜・眼圧・飛蚊症・水晶体・花粉症、全部診てください!」
「はい、分かりました。どうやってここへ来ましたか?」
「バスです、近いです」
「ではまず瞳孔を開く目薬をさしましょう。4時間はまぶしいですが、自力で家に帰れますね?」
「はい、帰れます」
「ではまず測りましょう、ドアを出て右手にどうぞ、○○さんお願い」
そこから始まったコーナー巡り。
みんな「こちらへどうぞ」とスタッフさんが導いてくれる。
各コーナー待合ゾーンは絶対横切らない設計、ここに絵の額が、ここに海水魚の大きな水槽が、ここに鉢植えがと「目休め」がある。

 全部終わってソファで、海水魚が泳ぐ姿ゆったり眺めていたら名前を呼ばれた。
 
 そして、最初に戻る。

 「老眼が進んでいるので、メガネがもう合わないでしょう、処方箋を書きますからメガネ屋に持って行ってください。そして、メガネが出来上がったら、ちゃんと合っているかどうか私が調べますから、また来てください。それにしても…」
老先生は私のほうを向いて
「あなたのように『クリアな目』の持ち主というのは、初めてです。ご覧なさい、これがあなたの診察結果です」
はい、と覗くと白い紙におおきな〇、中に目盛の小さな「+」がお行儀良く縦に横に並んでいるが、「それっきり」
「こっちは問題のある例です、これ網膜剥離、これ加齢による緑内障、これ高齢による視野狭窄、このとおり白い部分は中心のほんの一点だけで、お年寄りはこの視野で生活行動しているのです。
あなたの年齢になると、皆さんどこかしら障害、黒い部分が円グラフの中に出てくるものです。しかしあなたは
『何の問題もない真っ白な眼球』
視野の広さも、レンズも水晶体も網膜も眼圧も、まったく完璧です」
「そうですか…私は自分の目を酷使してきました。物心ついたときから22才までは日本画家志望、そのあと漫画とイラストレーションの仕事を30年、ワープロやパソコンも使いますし、そんなに問題ない眼球だとは考えたこともありませんでした。とくに飛蚊症は漫画家の職業病とも言われますし…」
「肢体不自由な人の絵画施設を仕事で訪問したことがあります。手も足も先天的に欠落しているのに絵を描きたいという欲求、それは、訪れる障がい者とその作品を直接目の当たりにするまで、情報としては知っていても根源から理解することは出来ませんでした、あ、これよかったら」
と、先生は引き出しを開けてプリントをくれた。市の広報に「健康の知識」として載ったコラムから、メガネ屋組合の広報、医学雑誌の論文まで、ご自分で発表された「目と共に生きる」というテーマに基づいて書かれた、とても優しい文章。

 ああ、私の赤ひげ先生(山本周五郎)は、こんなところにいらしたんだなー、と思った。

 帰宅して、保険証の臓器提供欄の「眼球」をマルで囲みながら、自分の目の『来し方行く末」に、しみじみ想いを馳せた。

 最後に「あの、花粉症なので目薬を…」の私の一言は
「あなたの目には必要ありませんよ」
と、穏やかな微笑みと共に却下された。