永田鉄山2015年06月20日 23:01

それにしても「永田鉄山が暗殺されなかったら太平洋戦争は回避できたのではないか?」とゆー話題で盛り上がる夫婦って…

昔のレコードから・22015年04月11日 23:42

もう1枚復元可能だったのは「馬」。

お馬はどうどう、白((ん)馬黒(ん)馬、白(ん)馬黒(ん)馬、
並んで通る列して通る
アオも並んで勇んで通る。
ちょっとよく分からないが、これ軍馬の歌。
「アオ」は昨日まで愛馬ったが
お国のために軍馬になるんである。
その別れの歌。

「わ~ら~にまみれてよ~育てた栗毛~」
の世界である。
三橋三智也、あなたは天才だ。

「軍馬」の時代がもう来ませんように。

昔のレコードから2015年04月10日 22:09

父はひとりっ子で(ホントは妹が居たけれど二才の時病死))溺愛されて育った。
体が弱く小児腎炎などもやり、「とにかく生きてくれ」というのが祖父母の願いだったらしい。
で、戦災を免れた父の遺品からは昔の教科書から、雛軸から、ザラザラ出てくる。
母は今86になって過去の遺品の生理中である。
戦前の子供歌歌、この山はなんだ!?
どれもすり切れて、聴けたのは「ままごと」

「♪ままごとしましょ 花シャベル
坊やはお使い いきましょね
ままごと 砂糖は 銀の砂
お口に入れても 甘うない♪」

なんだー、この歌はー!

砂、口に入れるなー!

私はサトウハチロー先生の孫弟子だったが、教わったのは、ただひたすら「野口雨情の悪口」のみ。
しかし、この詞のまずさはさすは分かるぞ。
唯一画期的なのは「男の家事参加」を歌っているところだろうか。
(男がお使い、というか「ままごと」する歌)

当時のレコード屋には「男の子(ひとりっ子用)」とかあったんですかいね。

川口技研の敷居すべり2015年03月08日 17:52

まったく、その冬私たち家族はテレビの前で凍りついたものだ。
これは悪い冗談かと最初思った。
1本のCM「川口技研の敷居すべり」
「四季の歌」の芹洋子さんが美声を震わしている
「『滑りましょうよ』『滑らせましょう』
敷居を優しくいたわりましょう
敷居に優しい川口技研
川口技研の『敷居〜すべり』・OK〜!」
世は受験シーズンである。
しかし川口技研は「滑りましょうよ・滑らせましょう・OK〜!♪」
なのである。苦情の電話がわんさかかかったようだ。
「敷居さえ滑れば、うっとこの息子滑ってええのんか!?」と
(なにしろ満を持してかけたCMは全国ネットである)

しかし川口技研には当時知恵者がいた。
「『滑って悪い』なら、今度は『絶対滑らない商品』を開発すればいいんです!」

かくして世に出たのが、階段、段差で
「滑らない商品・川口技研の『スベラーズ』」である。

当時CM契約を結んでいた長門勇が
「あ!」
と派手に階段を転けて見せて、
「こんなこと、ありますよね!
でも絶対に滑らない、川口技研の『スベラーズ』!」
これを受験シーズンにジャンジャカかけまくった。

まことに、日本の技術会社は「知恵者」である。

成人の日22014年01月12日 20:14

私はふだんサボりまくっておるのだから、とゴールディークに登校。
藤棚をスケッチして以下同文同文。

今ドッコイ氏の実家におるのだが、余りに寒いので成人式は夏だそうな。県北部と南部は今日なんだけど、寒さは中部のこちらが上。

コンダーラ2013年07月25日 01:33

今思い出した、
6年生の学芸会、「演奏」でナゼか「巨人の星」(笑)。担当は複音式ハーモニカ。
ああ、グラウンドならしのローラーのこと、「重いコンダーラ」と全員誤解していたわ。

年増好みの…2013年01月19日 09:01

奄美に「泉重千代」という、ギネス「世界一」長寿のおじいさんが、いた。インタビュアーが「お好みの女性は?」と訊ねたら「ん~~~…『年上の女性(ひと』…」世界でたったひとりしか飛ばせないジョークである。

自由平等・平和の机2012年12月28日 21:40

実家に、濃いニス塗りの古い机がある。
よく言えばアンティークだが、祖父の手作りなので無骨でもある。
祖母が身ごもった時に祖父が作り、成長して父が使い、兄が使い、兄が独立してまた父が使い、父亡き後は母が使っていた。これを、今回の引っ越しの時にもらいうけた。82年物である。

この机にはひとつの秘密がある。

戦前・戦中、「平和主義者」で「労働組合活動家」として特高警察にマークされていた祖父母が、自分たちがいつ捕まってもいいように、引き出しを全部抜いた裏板に「詩」を書いたのだ。
机を継いだ者だけがそれを読める。

母が、懐中電灯で照らして、書き写してくれた。

最初の1行だけは私も知っている。
「嵐は強き樹を作る」
である。それからが、82年の歳月でかすれて良く読めないのだが、
「貧苦の暴……れても、支配階級……
 闘志は益々先鋭化し、最後の勝利……
 確信は……堅固となり、自由と平等……
 闘争の余暇を利して、胎内にある愛児のために
 吾が同志のもっとも良き後継者として
 来るべき新社会建設をこの机上より
 創造の一歩を発せし為に記す
  1930年3月20日 (祖父母の署名)」

父の名は「確」であり兄は「等」私は「信子」、みんなこの机から名付けられた。
もしも私に子供が授っていたなら、やはり一字もらっていたかもしれない。

ミルク小豆色の日傘2012年08月19日 10:24

「日傘と乳母車」これが私の最初の記憶だ。
まだベビーバギーの出る前で、乳母車は対面式だった。そこで母の笑顔と通り行く夏の街路樹、母のミルクに溶いたような淡い小豆色の日傘。ところどころ文様にそって、ぽちぽちと刺繍糸で抜いてあり、そこから日が差して眩しかった。
私の幸せの記憶は日傘から始まる。

子供の頃の夏2012年07月29日 14:03

私の住んでいる町、今日は暑いけれどもいい風が吹いて涼しい。あら?変な表現だな。
とにかくエアコンも扇風機もいらず、かといって紙類がすっ飛ばされない状態。
モノゴコロついたころは、この涼しさがあったりまえの「夏」だったなあ、と今思い出しました。40年以上昔の話だわ。