宮城まり子さん逝く2020年03月24日 03:52

宮城まり子さんが逝った。
享年93。(奇しくも誕生日だった)

「ねむの木学園」で知られる、日本の障がい者教育、特に〈美・音・創〉に着目して優れた活動をした、日本におけるパイオニアだった。
ドキュメント映画や展覧会は国内外でも評価が高く、「障がい者の人権と才能」を広く世に知らしめた。

「ねむのき運動への支援寄付」は間口が狭い。

私たちは「広域」に関心を持たねばならない。

人や物の流れが滞る混乱期に突入し、誰もが「自分第一」である。
しかし、こんな時こそ、障がい、戦争、交通遺児、片親家庭、貧困、被災地などへの、社会的困難者への可能な限りの支援を忘れてはならない。
「貧者の一灯」でもいい。
持続こそが、生き抜く者の「自己存在証明」である。
困難な時期だからこそ、

「人として支え合わなければならない」

のだ。

美しい2016年07月14日 23:43

ゲイ・アート。美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=YtnJUS30olE

東ヨーロッパの同性愛2015年10月13日 02:17

ポーランド出身のバチカン高官神父も出たが。旧共東産党政権では「治療の必要な精神病」と考えられていた同性愛。
いっとき理解が深まったが、プーチン政権下でホモフォビアが再び増大。
プーチン。好きじゃないんだ、プーチン。

>ロシアでの新たな世論調査によると、5人に1人が同性愛者はliquidate(粛正、消滅、殺す)されるべきと考えており、37%がLGBTIの人々を社会から隔離して欲しいと望んでいるという結果が。(ありがとうございます、田亀源五郎先生)

タイトルは忘れてしまったが、共産主義崩落直前のハンガリー(だったと思う)実験モノクロ映画だった。
ちっぽけな女の子が精神病院を退院する。
彼女は同性愛者であることがばれて強制収容、治療となったのだ。
「もう女性に性欲を感じないね?」
「感じません、先生」
「よろしい、君は明日からここで働きなさい」
指示されたのは階級社会で最低のミシン工場。
1日中ミシンを踏み続けて、私服も買えないで、休日薄暗い女ばかりの酒場へ行く。
やっぱり東欧体制とは言えハッテン場はあって、彼女はそこで以前の恋人から
「ねえ・・・」
と声を掛けられる。
「だめよ」
ふたりでいるところがばれたら、再び病院送りだ。

彼女は絶望し、貧しい縞の工員服で町をさまよい歩き、ついに行き倒れる。
通りすがりのリムジン。
「ちょっと、止めて」
と降りてくるのは大柄な、贅沢な毛皮のコートを身にまとった「奥様」だ。
「かわいそうに、非道く弱っているわ、車に乗せて」
「はい、奥様」
女の子は高級ふかふかベッドで目を覚ます。
奥様は共産党高級幹部の妻、夫は出張でモスクワ滞在だという。
「夫はとっくに私を愛していないわ。ただ存在が必要なの。」

そこではじまる、夢のような、奥様との愛の日々。
「小間使い」の名目で雇って、奥様は上流階級の生活を体験させる。
しかし、ああ、しかし突然帰ってくることになった夫。
ふたりは引き裂かれてしまうのか。

そこで奥様と女の子は国境の川目指して逃避行に出る。
当然警備隊ウヨウヨ、なんと女の子をかばって撃たれたのは奥様であった。
とんでもない人を撃っちゃったというので、兵士は緊急首都の病院に奥様を運び、急いで手術である。
「よし、命は取り留めた」というところでセリフは終わる。
女の子はひとり、国境の川沿いに残されている。
愛しい奥様はもういない。
ふらふらと川を渡り始めたところでパンッと撃たれ、倒れて映画は終わる。

さーて、この映画、タイトルも監督も分からないんだわさ。
VHS時代に一回レンタルで借りて観ただけ。
モノクロ、というのと解放前の東欧映画というのが印象的で忘れられない。
DVDになっているんだろうか、タイトルをご存じの方、お教えください。

「ホモォ┌(┌ ^o^)┐」の嫌悪2015年04月04日 18:36

私は生まれながらにしてバイセクシャル(両性愛者)である。
大学に入ってしばらくして、喫茶店で後ろの席で
「お前の××大学経済学科、○○ってのがいるだろ。」
「知らないよ。」
「「まあ、○○ってのがいるんだ。
高校で一緒だったヤツに聞いたんだが、そいつ、ホモだぜ。」
という会話に、
見ず知らずの者にまで「○○はホモ」と、
ゲイとして何で世間に喧伝されなければならないか、と怒って
持っていたコーヒーぶっかけようかと振り向いたら
後ろの席のふたりは立ち上がったところで、ぶっかけそこねた。

ゲイヘイト「ホモォ┌(┌ ^o^)┐」ほど腹の立つことはない。
それは「レズゥ┌(┌ ^o^)┐」にもつながっているし、
「バイィ┌(┌ ^o^)┐」にもつながっているのだろう。
私は私なのに。

魂で生きているのだ。
性差されたくはない。

しかし六〇年代後期に流行った
「陰花植物」というゲイたちの「自称」は
「美的であるな、うむ。」と頷いたりする。
そこいらへん、あいまい。(我ながら…)

世間は思索する人たちにとってはひとつの悲劇であるが、
感情にかられる人たちにとってはひとつの喜劇である。

初夜と中沢先生2015年03月09日 23:34

大人になって男性で恋をしたのは3人である。(小さい頃は「お嫁さんになって!」の嵐で訳が分からん!ちなみに女性はナイショ。)
ひとりは、恋に堕ちたそのとたん「お母さんが倒れて」故郷へ帰り。
ふたり、お母さんが亡くなって、ひとりは「ごめん、故郷に帰らなくちゃならない」で別れ、もうひとりは「ごめんね、残酷だけれど、私あなたのお母さんの替わりにはなれないのよ。」で自然消滅。
しかし私は処女であった。
卒業の日の最後の授業、お堅い中沢先生(女性)が、
「結婚式を迎えて初夜を迎えるまで、守りなさい。私がデートの時は弟が『おねえちゃんこれ』といって純血のお守りを渡してくれたモノです」
とおっしゃったから。
私は中世ヨーロッパで婚儀の閨に、「もし花嫁が出血しなかったらこのハトをナイフで殺してハンカチを染めよ」なんていう貴族風習まで知っていたんだけれど、恩師の教えであるから守ってきた。
以来私は、よっぱらってチューしようとする者や、畳にいきなり押し倒す「さかりのついたオスどもを、蹴り上げ、張り倒し、アルマイトやかんでボコボコにしてきた。
中沢先生、スギウラは、劣等生だったけれど教えを守りました!
んでもって初夜の晩。
「じゃ、つけるね!」
と明るく言い放ったドッコイ氏、彼も純潔。
「あっれー、どっちが表か判らないな~。」
「どれどれ、見してみ。構造上外巻きが表のハズ…」
なんて初夜の晩は、中沢先生のおっしゃるような「天使と飛び交いアヴェ・マリアが鳴り響くような荘厳なモノではありませんでしたとさ。

いまは天国の中沢先生、私は子供も授からず、じーちゃんばーちゃんばかりの団地で暮らしておりますが、結構幸せです。