今こそ読もう「村山談話 全文」2015年08月12日 00:55

現職首相が当初
「もう70年の節目だから、おわびも反省も盛り込むつもりはない」
としていた14日の「談話」。

世界から、国内の有識者から、そしてなにより日本国民から非難を浴びて、あとからあわてて
「おわび」「植民地支配」「反省」と言った言葉を「つけたそう」としています。
泥縄ちゅーんじゃ、そーゆーの!(苦笑)

でも結局は、戦後の節目50周年にして初めて「談話」という形で世界にアピールした「村山談話」(村山富市・社会党)に限りなく近づく可能性はあります。

当初から「心に思っていなかったこと」を、周囲からの働きかけで

「とりあえず述べる」

わけですな。
どこまでたかをくくったトラウマお坊ちゃまなんだ、安倍晋三!
連日子供部屋の窓から聞こえる「安保反対」のデモ隊のシュプレヒコールに
「僕の大好きな岸信介おじいさまが『国民』にいじめられている。
おじいさまは立派な首相なのに!」という原体験。


歴史的評価の高い「村山談話」の全文を載せます。
一読の価値があります。一人の首相が「50年間の沈黙」をやぶり
初めて日本国代表として心情を述べた、
胸に迫る、切実な言葉がここに「生きて」います。

今、私たちは「村山談話」を改めて読む必要があります。



「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

村山総理大臣談話 / 平成7年」

国家コーラ2015年06月18日 19:17

年表で、私の生まれた年は「スカッとさわやか・コッカコーラ」というコピーが出たのだと知る。
コカコーラじゃないの、「コッカコーラ、コッカコーラ、コッカコーラを飲もうよ♪」とCMでは流れていたの。
「Yes、『コーク』Yes」なんかないの。
「コーク」じゃないの、「コーラ」なの。
ペコちゃん印の不二家コーラなんかもあったな。
いつからだ、ペプシとの二大戦争になったのは。

コーラはまだ北海道の一部では発売されていなくて、
「東京モンはしょう油のイッキ飲みしてる。」
と、コマーシャル先行で思われていたのも笑い話。

「あたり前田のクラッカー」も同年。
ああ、「てなもんや三度笠」。
マリリン・モンローが急逝し、キューバ危機が起こり、
中尾ミエは「可愛いベイビーを」、植木等は「ハイそれまでよ」をヒットさせ、
封書10円、ハガキ5円だった年。

けっこうな年じゃないの。

塊(かたまり)としての日本2015年03月29日 20:59

「塊(かたまり)」としての日本は、いま、悪い方向へ行こうとしている。
「景気が良くなっている」と言って総理のイエスマン一流企業だけで、下方や地方はどうか。
物価はジワジワあがり始め、今年の新入社員は「お父さん、お母さん、いままでありがとう」と初任給でプレゼントを買ってあげられないのが現状だろう。
なにしろ「バター製品原料薄なので、ひとりお買い物につき1点」という物価の乱れよう。
小麦粉製品は1袋1キロだったのが700グラムになり、国民の背筋をゾロリと舐める。
気がつくと何もかもが少しずつ値上げしていく。

「いい目をみたければ総理にYesと言え。」
自分の就任期限を延ばす、ただこのために700億円かけて解散総選挙をした総理は言う。
あの選挙は自分にとっての「Y esマン」を洗い出す選挙だった。
2020年のと東京オリンピックに向けて、東京の町並みは変わっていく。
風情のある建物がどんどん壊されていく。
請け負っているのは「総理Yes」の一流企業だが、実際には下請け、孫請けがやっている。
このヒエラルキーのピラミッド構造!
戦後日本は「国民全体の豊かさと幸せ」を求める国ではなかったか?

かつて経済世界ナンバーに躍り出るも、調子に乗ってエンパイアステートビル買って、シアトルマリナーズ買って、バブルがはじけたら最悪の赤字国へまっさかさま。
世界ナンバーからころげおちて、福島の原発事故の国債を払うだけで30年かかるという。

塊としての日本は、もうあちこちヒビだらけだ。
自衛隊のことを
「我が軍」
とツルンッと言ってしまう男が総理を務めている。
最低だ。
塊としての日本が、慈雨の潤いを取り戻し「平和」を国是とし、少しでも貧しい者に冨が行き渡りますように。
ひび割れて、崩壊してしまう前に。

♪けんかを…(まど・みちおさんへ)2014年03月01日 03:10

昨日、作詞家まど・みちおさんが亡くなった。享年104。
ご冥福をお祈り…したいのだが、わたしはちょっと、生前のまどさんにもの申しあげたかった。
「ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね♪」
「しろやぎさんからお手紙ついた♪」
どれも名作である。
が。
私の小学校時代の校歌を「革新的に作詞」してくれたのにはチト困った。

♪けんかをしたって友だちだ、あだ名をつけても先生だ、
♪やっほー、やっほー、小学生だ、しゅっぱつだ。
♪あしたへむかって、みらいにむかって、やっほー…

…いきなり「けんか」や「あだ名」をせにゃならんのか。

小学校3年生の時に出来た校歌だが、
世間様では「未来学」なんて学問ができ、
みんなの未来はあかるく輝き、いずれは宇宙に都市ができ、という具合に、どんどこどんどこ、太鼓叩いて、「未来」をあおりたてて。
アポロは月に行って石ひろってきて、大阪万国博来会があって、
大人はバンバカ明るい花火を打ち上げたがっていた。
(ウラでは公害や環境破壊も走り始めていた)

まどさん、当時の小学生はね、「も少しおとな」でしたよ。
冷戦もあったし、ベトナム戦争もあったし、沖縄、小笠原返還前だったし。米ソ両国がスイッチ押せば地球30個壊す分の兵器があるのも知っていた。

♪けんかを♪から始まる曲は、河合奈保子(竹内まりや)の「けんかをやめて」で充分です。(これも非道い内容の歌だけれど…)

ps. 幸い?母校は少子化で廃校になりました。

オオカミさん2013年03月26日 22:26

母がおもしろいもの を発掘してきた。
子供の頃に聴いていたレコードの数々である。
といっても、枚数はないよ、ウチは貧乏だったから。
稼ぎはよいのだけれど、それに輪をかけて浪費家だった父のおかげである。
だから数枚のレコードを、それこそ溝がすり減るまでくり返し聴いたのだ。
       
出てきたのはキングレコードの「たのしいおとぎ童謡集」つー25センチ盤と (内容が相当古いので兄貴のだね、こりゃ)ソノシート(ぺらんとしたレコードのことよ、ねんのため)NHK「よい子のうた・NHKテレビ うたのえほん」 (「おかあさんといっしょ」の体操の歌なんか入っていて、歌のおねえさんは初代・真里ヨシコさんじゃなくて2代目のみずたにれい子さんだ)
それに「ぶーふーうーのうた」である。
    
この「ぶーふーうーのうた」が、すこぶる良いのだ。
「ぶーふーうー」はNHKの子供向け番組の中でも傑作中の傑作である、知らない人は知ってください、すごいから。 ビートルズを語らずしてロックンロールを語れないように、「ぶーふーうー」は黎明期のテレビ番組の「マスクドプレイ・ミュージカル」(「かぶりもん歌劇」とでも訳すのかな)の金字塔である。なんせ脚本・作詞が故・飯沢匡(ただす)さんなのだからして。
    
内容は童話「3匹のこぶた」を、舞台をメキシコにして連続コメディーにしたような世界で、他に跳ねっ返り娘のオウムの「ペロちゃん」と、全然恐くない「ユーレイさん」が出てくる。 「ぶー」がドラえもんの大山のぶ代さん、「ふー」がパーマンの三輪勝恵さん、「うー」が黒柳徹子さんである。そして、どこか愛嬌があって憎めない「オオカミさん」が永山一夫さん。
    
この「オオカミさん」は本当はこぶたたちと仲良くなりたいのだが、いつも何かしら食い違いがあってイジワル役&負け役にまわってしまうのだ、わたしはオオカミさんが大好きだった。 幼稚園の学芸会で「三匹のこぶた」をやることになって「おおかみ」の大役が回ってきたのだけれども、私の好きな「オオカミさん」とはまったく別人で、泣いて抗議した位!(ふだんはおとなしい、聞き分けのよ い子供だったのよ、一応・笑)好きだった。   
     
永山一夫さんは、調べたら「劇場版アニメ・わんわん忠臣蔵」に出ていたらしい、あとは任侠映画などにも出ていたらしい。
「永山一夫」と名乗っていたのは、本名が「コン・ピョンスン」さんだっからで、この名前ではオーディションに受からないと赤ちょうちんで嘆いていた彼に、居合わせた客が「じゃあオレの名前を使うといいよ」と言ったからだという。
オオカミさんは朝鮮半島から戦前戦中「強制連行」されてきた人、あるいはその
子孫だったのだ。
    
その日、その時間になんでNHKの朝の奥様番組を観ていたのかわからない、(たぶん風邪でもひいて学校を休んでいたのじゃないかな?)1971年の冬のことである。
テレビスタジオには鈴木健二アナウンサーと黒柳徹子さんがいた。
黒柳さんが電話で誰かと話をしながら泣いていた、相手はあの「オオカミさん」の声のひとだった。
新潟から北朝鮮に帰国の船が出る、その船に、永山さんはこれから乗るという。1950年に始まった朝鮮の南北戦争は3年に及び、さらに2年の休戦交渉の末に250キロにわたり朝鮮半島を分断する「38°線非武装地帯」で一応決着?がついて、これからの祖国再建のために、日本を出るという。
その第161次帰国団250余名の中にオオカミさん、いや、永山さん、いや、コンさんはいて、マンギョンボン号の出航する新潟港と電話はつながっていた。
    
船に乗ってしまえば、もう連絡のつてはない。
本当の本当に情報のない時代だったのだ。
「どうぞお身体にお気をつけて、お元気で。」
と何度も何度も繰り返し、黒柳さんは泣いていた、「うー」の声で。
「さようなら。」とコンさんは言った、「オオカミさん」の声で。
    
のほほんと脳天気に育った私には、「大人も泣くのだ」ということがショックだった。 「永遠の別れ」というものが、この世にあるのだということが。
    
出てきたソノシートにはオオカミさんの歌う「おれはのけものだ」という曲がある。 瞼を閉じたオオカミさんがギターをかき鳴らす写真がついている。
    
おれはのけものだ
いつでもいつでもなかまはずれ
どうしておれはすかれない
どうしておれはきらわれる
おれはこんなにいいオオカミなのに
みんなみんないやがるんだ
おれはのけものだ
いつでもいつでもなかまはずれ
   
飯沢匡さんの作詞したこの曲を、オオカミさんは、永山さんは、コンさんは、どんな気持ちで歌っていたのかなぁ、などと、私は考える。
     
オオカミさんは、北朝鮮で亡くなられたという。
享年は、わからない。

川の畔に住む人は2013年01月10日 03:36

養母(明治40年生まれ)の介護で横浜に住んでいたとき、丘の上にある日本画家の養母宅はアトリエばかり広く同居が無理なので、丘を下った川沿いのアパートに暮らしていた。
帷子川(かたびらがわ)という。風雅な名前である。
もっとも日本人がまだ「公害」というものに危機感を持っていなかった頃は、この川、上流の捺染工場(当時横浜は世界のスカーフの90%を捺染していた。グッチもエルメスも、横浜で染めて、本国で縁をかがってメイドインフランス一丁上がりである。)のピンクや黄色の廃液で染まっていた。
当時横浜の「ヤ」のつく若い衆は、
「オゥ、簀(す)巻きにして川に浮かべちゃろか」ではなく
「オゥ、簀巻きにして赤やピンクに染めちゃろかい」
とスゴんだ、という噂もあった。
子供の頃から養母の家へ通い慣れた川の畔である。
私たちが移り住んだ頃はすっかりきれいになって、鮎を釣っている人がいた。
尋ねたら「食べるには適さないが、活かして置いて友釣りのおとりに使うのだ。」という。

「川の畔に引っ越しました。」
と養母に告げると、
「それはふたりとも前世でいいことをしたんじゃろう。」
とたいそう喜んだ。何かと思ったら、川のほとりに住む人は、洗濯でジャブジャブ盥で洗わなくても、流れに沿って、着物の襟のところに大きな石を載せておけば自然と水流できれいになり、手間が省ける、というものであった。
多分奈良・平安にまで遡る日本人の知恵である。
昔の洗濯は重労働であった。
それからの解放を「前世でいいことをした」に置き換え、来世は川の畔に暮らせるように、現世で徳を積む。
「なるほどなあ」と夫・ドッコイ氏と顔を合わせたものである。

明治40年生まれの養母には、何十代もの先人の知恵が詰まっていた。
もしも文明が衰亡して、原始時代に戻ってしまったら、ドッコイ氏と私は川の畔に住もうと思う。