言の葉を交わす2013年02月17日 14:27

私、人と仲良くなるの上手な方だとおもいます。
別に「社交的」ってわけじゃありませんが。(むしろその逆かも・笑)
乗ったタクシーの運転手さん、スーパーのレジのおばちゃん、お店のスタッフ、 たまたま道で出会ったお年寄り、こども、ホームレスさん、まず誰とでも。
      
「誰とでも、言葉を交わそう」と積極的に思うようになったのは、15才の冬でした。
     
まだ「国鉄」だった頃の横浜の「桜木町駅」改札口を歩いていました。
朝早く。 バスに乗るために。
なにしろ通っていた学校、朝早かったんです。
修道院の日課にあわせて、7時55分には最初の鐘が鳴っちゃうんですから。
(朝起きるの5時半よ! 今の私からは想像もつかないけど・・・・・我ながら・・・笑)
     
今は明るくきれいな桜木町駅も、当時は古い、暗い、そして横浜特有の「浜風」のせいで
どんより煤けた建物でした。(港ヨコハマは塩を含んだ風が吹くので、全体的にくすんだ街だったのです。 キレイになったのって、割と最近のこと)
冬の曇った早朝、みんな地味なコート姿、手には鞄、白い息、 靴音ばかり。
そのなかで。
    
構内の通路に段ボールを敷いて、4~5人の男の人たちが「酒盛り」してました。
      
「日本3大ドヤ街(がい)」ってご存じ?
東京の「山谷」、横浜の「寿」、関西の釜ヶ崎・いわゆる「あいりん地区」です。 
明治の開国、戦後焼け野原となった横浜、大急ぎで街や港を造らなければならなかった日本の「労務者」の住むところ。 大人の、男の人ばかり。
「手配師」と呼ばれる人たちが、その日その日の「土木仕事」を振り分けて、あっちの工事現場、こっちの荷物積み、働きに行く人を
決めます。 仕事にあぶれたら、その日一日収入はゼロ。
     
そのドヤ街から流れてきたおじさんたちでした。
当時はペットボトルもなく、「ヤンカラ」と呼ばれる焼酎の2合ビン(えーと、泡盛みた
いなもんよ)を手に手にラッパ飲みしながら通る人たちをののしっていました。
サラリーマン風の人には
「朝っぱらから辛気くせえカオしやがって、この野郎!」
「やめちまえ、『お勤め』なんて!」
女の人には卑猥な言葉。
みんな彼らを〈無視〉して通り過ぎて行きました。 「カタギ」の人は忙しいのですから。
    
その中のひとりと私の目線が合ってしまいました。
紺色の制服、黒い靴、メガネ掛けて、手には分厚い学生鞄(なにしろ教科書ノートに辞書4冊、ふざけていっぺん体重計で量ったら15キロ以上あって、ぶっとんだわな・笑)。
「よ、姉ちゃん! 学校なんか行かねえで、こっちきて一緒に呑めよッ!!」
    
「じゃかましいっ!」
なんでとっさに叫んだのだか。 ま、なにしろ私、いざとなったらチャキチャキ江戸っ子。(の、末裔・笑)
「朝っぱらから酒なんぞ呑んでないで、とっとと仕事しろいっ!!」
    
おじさんたちは一瞬黙って、それからドワッ!と笑いました。
「早く、いいからこっち!」
先輩に腕を掴まれて、私はその場を離れました。
足早に歩く背中にいつまでも、笑い声が響いてました。
     
私は、一番言ってはいけないことを言ってしまったのです。 仕事がないから、呑むのです。
もうドヤの簡易宿(ベッドハウス)に払うお金もないから、段ボール敷いて座ってるんです。
未熟なガキの私には、まだその「世の中のしくみ」がちゃんと見えてはいませんでした。
みんなみんな、おじさんたちを、「いない者」として通り過ぎてゆく。
駅の、場所ふさぎで、お酒臭くてやかましい「備品」として。
そのなかで。
私ひとりが初めて「人」としておじさんたちの「言葉」に「応え」た。
だから一瞬の沈黙。 だから、笑った。 哀しい人ほどよく笑う。
おじさんたちは、泣くかわりに、笑ったのです。
     
バス停まで歩く、冬の風が、不思議とほほに一筋つめたい。
たぶん私は泣いていました。
    
私は人と仲良くなるの、たぶん上手な方だと思います。
誰とでも、積極的に、言葉を交わします。
「社交的」ではないんですけど(笑)。

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