ああ大阪の夜はふけて…2012年10月02日 14:27

シャンソンのソロ・ライヴを聴きに大阪へ行って参りました、もちろんいつものヘソクリで(笑)。
市原さんという友人が伊丹に住んでいて、大阪を中心に関西方面のシャンソニエ(シャンソン酒場)で各ステージ出演しておられるのですが、
今回格式のある「ベコー」という店でついにソロライヴ!!
すわこそ参阪!
ヘソクリ+自分の貯金+なんとドッコイ氏がJRのクーポン券くれて、
「遊んでおいでよ」
と言ってくれたので(!なんてイイ夫なんだ!!)「家サイフ」渡して
「ご自由に!」
この阿吽(あ・うん)の呼吸習得するには歳月がかかりましたが、新横浜まで車で送ってもらい、レッツラ・ゴー!
定宿・堂山東急インは1階半分が「キンコーズ(ビジネスマン専用有料スペース)」でスーツ姿の男女入り交じってウィーウィー・ガーガーと、せっせと作業しているわ。
すいませんねえ、私、歌を聴きに来たんですよ、宵闇せまったし、ホテルのフロントで地図のコピーもらって、ご自由にお使い下さいのビニ傘借りて、歩き出す。
いきなり道に迷う私。迷う、迷う、迷う私。
もう、ステージの幕は上がる時間、焦る、焦る、焦る私。
小さな靴屋さんでおじさんが靴修理してたので、仕事中に悪いな、と思いつつ「あのう…」な私。
わざわざ表に出てまで、道教えてくれました、おじさんアリガトウ。

で大遅刻で店に着いたわけだ。歌っている最中は中には入れないから、「1ステージあきらめるか…」と覚悟してドアに…
開いてました。
満員御礼、通勤ラッシュ並の混雑っぷり。
幸いなんとか私も隅っこの折りたたみ椅子に座れて、さあ始まりだ!
ものすごい迫力で聴くお客さん。
ものすごい気迫で歌う市原さん。オール・ピアフしばり~!

「歌姫誕生」の場に居合わせて本当に幸せだと思ったのですよ。

ピアフ(いいDVDが出てます「エディト・ピアフ・愛の賛歌」)の歌の世界に市原さんが入り込んでいって、歌いながら。
奥からもう一度、市原さんがクワァッと自分の世界へ包み込んで還るのですよ。

「素晴らしい表現者」に心が握られて、ゆさぶられましたね。

帰りはもう、あきらめてタクシーで宿へ。
「キンコーズ」ではまだダークスーツの男女がコピーとったりパソコン操ったり。
お疲れさまです、すいませんね、私、遊び人なんですよ。

で、最初にベコーに行ったとき、支払いが全部5百円玉で(笑)
「おつり銭に助かりますー。」
と、スタッフの方に言われたので、
隅田川七福神の長命寺の浄財袋の底から、江戸・金本位で大阪・銀本位なので担いできたぶん両替しました。(走る両替商人と呼んで、もう・笑)
大阪1

心が満腹になるとおなかが空かないので、チャージのつまみをポケットに入れて帰って、ホテルのお茶で晩ごはん。
大阪2


下に敷いているのは伝説のNHK朝の連ドラ「ちりとてちん」手拭い。
で、心の荒熱を冷ますために田辺聖子さんの「姥ざかりシリーズ」。(前回持っていったのは「おせいどんアドベンチャー」)
あぁ、気がついたら市原さんも田辺センセも伊丹の人だわ。

もう西の方に脚向けて寝られませんな、わたくしは(笑)

で、翌朝「のぞみ17号」で「台風17号」ぶっちぎりで帰還し、ドッコイ氏のパンツを洗濯しましたのよ。
ただいま室内干し中です。明日には乾くじゃろうて。



トリックオアトリート2012年10月06日 17:25

ハロウィンという.ピューリタンのお祭りは、いったいいつ頃から日本に普及したのだろう。
NHKのチャーリーブラウン(チャーリーが谷啓さんでルーシーがうつみみとりさんという豪華さ!)で見ていたが
「わたしチョコレートもらったわ!」「わたしはキャンデー!」チャーリーだけが「ぼくかりんと…」
次の家で「わたしレモンガムよ!」「わたしマシュマロ!」「ぼくかりんと…」と最後までチャーリーは「かりんと…」なのであった。ピューリタンの国アメリカでなんで「万霊節」がはやっちゃてのかワタシにゃわからん。
通っていたカトリック修道院の学校(単にミッションスクールと書かないのは公道からいきなり「ロ」の字の建物があって、その半分は修道院だったから。いまは修道院は移転して、年に東大何人というお進学校になり果ててつまらん。)
で、私達の頃は10月31日に遅くまで校舎に残っているとシスター方に
「万霊節だから早くお帰んなさい。あしたは諸聖人のための御ミサ(万聖節)だから遅刻しちゃダメよ!」
と、まー死んじゃった聖人さん達その他の「お彼岸」なのであった。
「万霊節は悪い霊魂が出てきて人間に悪さをする。」
という考え方で「トリックオアトリート」まではまだまだ遠かった。
10月31日はサッサと眠ることにしている(笑)。

行って来ます2012年10月08日 02:38

本日「東京卸売りセンター」(台東区柳橋)で行われる「えどざくら9」とゆーイベントに、ちょっくらちょいと行きますです。
いわゆる同人イベントってやつね。
わたしがどんなおばちゃんか観たい方、どんな絵を描いているか知りたい方は3時までにお越し下さい。

藤姉さん2012年10月10日 00:17

私が藤姉さんの作品を好いているのは、絵にもストーリーにもどこかに「せつない」という情感を含んでいるからです。
というわけで、新刊「Gematria」に欣喜雀躍しているのは、日本中で私がナンバーワンでしょう!(うふふ)

猩々蠅(ショウジョウバエ)2012年10月11日 00:23

昨日が燃えるゴミの日だったもので、三角コーナーの梨の皮は無くなってしまった。
赤い眼をした猩々蠅(猩々は、能面の赤、髪の赤、装束の赤と三要素揃った”酔い”の気楽の象徴)が、せめてもの暖を求めてさまよう部屋で、私に寄ってくることも、頬に止ることも、
「小さな命の終(つい)の棲家」
と思えば苦しゅうない。

オリオン座流星群2012年10月21日 23:00

11月21日夜11時。
「ではちょっと行ってきます。」と言ってドッコイ氏外出。
30分後
「あー首痛い」と言って帰宅、ひとつも観られなかったそうで、
首のこりを癒すべく風呂を沸かし始める。
楽しい同居人で、私も嬉しい。

夜と霧は消えない(ニュースより)2012年10月23日 23:27

「最高齢のアウシュビッツ生還者、108歳で死去」ロイター - 10月23日 14:10

[ワルシャワ 22日 ロイター] 第二次世界大戦中にナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺が行われたポーランドのアウシュビッツ強制収容所の元収容者で、世界最高齢の生存者とされていたポーランド人、アントニ・ドブロボルスキ氏が21日、108歳で死去した。アウシュビッツ博物館が明らかにした。
教師だったドブロボルスキ氏は1942年6月に拘束され、アウシュビッツ強制収容所に送られた。後に移送されたザクセンハウゼン強制収容所で終戦を迎え、戦後は地元の高校に戻って、長年にわたり校長を務めた。
ドブロボルスキ氏はユダヤ人ではなかったが、禁じられていた教員組織に所属して小学校でポーランドの歴史を教え、ナチスの意向に従わなかったとして拘束された。
第二次大戦中、ナチス・ドイツはアウシュビッツ強制収容所で150万人(他の収容所などと合わせて600万人)を虐殺したと言われている。


少女時代、『夜と霧』(ヴィクトール・エミール・フランクル(1905年3月26日 - 1997年9月2日)オーストリアの精神科医、心理学者・著)を読んで以来35年以上、温めていたプロットがあって、「ホロコースト」について調べ続けていた。
「戦場のピアニスト(DVD)」など、良い資料は揃ったが、描くための手を決定的に傷めてしまい、宙ぶらりんの作品のひとつとして、「カムバックしたら必ず描く袋」の中にいる。
座り芝居の演目として2度だけ演じた「苺の香りのするせっけん」の母体である。
ゆえに、このニュースは重かった。

戦争の傷は、「忘れてしまう、しようとする、知らない派」と、「絶対全記録派」に別れており(こちらがはるかに少数派であるのは言うまでもない)「中間層が薄い」のは何も我が国に限ったことではない。
(確かフランスだったと思うが、学者が「アウシュビッツはでっちあげである」という極右の論文を書いて、問題になったのはもう20年以上昔のことだったか。)
「国家『戦略』大臣」などというアホな、無神経な名前の役職をおっ立てて上げてしまうくらい、今の日本全体の感覚は、戦争に対して鈍すぎる。
せめて、この文章を読んだあなたは、心の棚の中に、この事実をコトンととり置いていて欲しい。
真実は「当事者の数」だけある。が、事実は「決定的にひとつ」しかないのだ。

森の愉快な仲間たち2012年10月26日 00:34

地元の駅近くにライヴハウスがあったころ。ビラ配りのお姉さんから受け取った1枚は「2800円・1ドングリ付き」とあった。よっぽどVOWに投稿しようかと思ってしまった「森の仲間のロックグループ」(笑)…

三週連続2012年10月31日 17:22

義母が倒れ、退院し、すぐに義父の三回忌があって長野と東京の間を毎週往復。
三回忌の法事は、着いてすぐに私が倒れてしまい、留守番で家にいた。(標高が八百メートル越えると、心臓がネをあげる)
その間にも親族と夫の間ではいろいろ話し合いがあり、現在の「要支援2」のレベルではもう無理なので「介護認定」を移行すること、(入院中もケア・マネージャーさんは来てくれたのだが、「生活」での不便を認定するためもう一度。)台所や寝室を「なんとかする」ことになった。
(なにせ台所の一角に、もらい物の包装紙や紙袋が積上げられて高さ1メートル。
戦後引き上げだった義母の、捨てられない気持ちはよく分かるが、これでは台所が「台所として機能しない」状態である。
左手の痙攣がひどく、杖も手放せず、しかし今の住まいを動く気がないのなら、体の機能にあわせて住まいを動かすしかない。
で、部屋の整理(というよりも「捨て」)で夫は三週間連続で帰省である。
私はまるで「力無なしな上に『薬頼り』」なので不参加。
(行くとかえって足手まとい。)
さぞや力仕事と知恵仕事が山積みであろう。
健闘を祈る、しかないなあ。頑張れ夫。