奈良旅行記その2「仏女と蛍光灯」2009年12月11日 10:55

翌日朝6時に起きて、ご飯食べた。洋風バイキングだったのだが、私はパワーが持続するようバナナを食べた。「バナナを1本食べると1里歩けるんじゃ」という、明治40年生まれの養母の信条である(笑)。
開門と同時に興福寺へ。ああ既にチケット獲得組がいて一番乗りならず。
ま、とにかく後について、混雑もなく、昔の配置、真ん中にそびえる釈迦如来坐像の真ん前に阿修羅。
ああ、八部衆が、十大弟子が、ガラス越しの1列並びではなく、四天王や薬上菩薩、薬王菩薩など大物の前に、まるで「けなげな少年十字軍」のように配置されている。
阿修羅は相変わらず、八部衆がサザエさんみたいにお膳を囲むときに茶碗3つで箸6本、断然優位そうである。
(が、きっと一膳は手足の残っていない五部浄に食べさせてあげるんだわ)
私の好きな緊那羅(きんなら)は左端にいる、あの角と額目の異形が好きなのよ。
頭にヘビ乗っけた子(名前覚えらんないのよ)がいたいけだわ、なんて澄んだまなざし、ふくよかな頬〜♪と楽しんでいると、前の20代後半くらいの女性2人連れが
「やっぱ上野は混んだよね〜」
「福岡もけっこう人いたし」
「私阿修羅サマの左向きのお顔すきだわ〜」
は?
日本中「阿修羅像」追っかけてるんですか!?こ、これが、「歴女(れきじょ)」(歴史、それも戦国時代の武将マニアの女性)に次ぐと言われる「仏女(ぶつじょ)」さんですか〜〜〜?
はまりすぎて尼寺で出家しちゃった人もいるという・・・・初遭遇だよ。
そういえば回りを見渡せば年寄りより若い衆、それもカップルか女性同士が多いではないか!

とりあえず興福寺は朝一番にたっぷり拝観できたので、ちょっと離れた法隆寺へ行きましょうということになった。
ここは戦争中、空爆を恐れて金堂の四壁画を模写、終戦後も傷みがひどいので模写は続いていたのだが、火事で焼失。それを復元させたのが、当時の名手と言われた4人の日本画家とそれに従う若手日本画家たち。このあいだ亡くなった平山郁夫さんは前田青邨(せいそん)先生の弟子で、修復に参加している。
それと安田靫彦先生。私はこの方の孫弟子にあたる。全然描いてないけどさ、日本画。
(苦笑)

なんだか係の人(ご年配)と話が盛り上がっちゃって、
「放水したら勢いで中央の仏さまのお顔が抜けて穴になっちゃったんでしたね。」
「ああ、ありゃひどいもんでしたなぁ。」
「民間で蛍光灯使ったのここが初めてですよね。」
「そう、あとは潜水艦だけ。ここで使ったのは今、東芝博物館に収蔵されてますよ。」
「あ、そうなんですか〜。ところで安田先生のお墓、分骨して法隆寺にあるって弟子だった養母から聞いたんですけど。そのお墓の記念文鎮(キレイな三重塔である)ウチにあって。」
「え?聞いてへんな、ちょと調べてみましょ。」

で、広い敷地内を夢殿まで参拝してきたら係のおじさんが追いかけてきて、
「やっぱりここにはないみたいです。」
って、分寺も多い法隆寺中探してくれたようで、ありがたかった。
養母の記憶違いであった。神奈川県大磯の本墓に、こんどお参りに行こう。

(まだ続く)

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