「カーネーション」とみかん山2011年10月11日 14:18

NHKの連ドラ「カーネーション」を愉しく観ている。
これはNHK大阪制作の「ふたりっこ」「ちりとてちん」以来の大ヒットなるか、という予感。
ただし「それ(恐くて打てないけれどボ○ンのことよ)恐怖症」の私は、オープニングの動画で出てくると目を伏せなければならないのだが(笑)
(ホント、Yシャツの「それ」が雨に濡れた歩道なんかに落ちていると、踏むはおろかまたぐことも出来ず、半径1メートル避けて通るくらいである。中高の制服はジャンスカだったのだが、ブラウスの「それ」が貝製だったので助かった)
結婚にあたり、そのことをドッコイ氏に告白し、
「たとえどんな夫婦げんかをしているときでも「それ」がとれたら針と糸持って、貴方がつけてください。」
と真剣にお願いしたくらいだ。(その誓いは今も守られている。もっとも最近の服は堅固で、とれたことは一度しかないのだが。

いかん、話題は「カーネーション」であった。
越野糸子さん(デザイナー、コシノ三姉妹の母)がモデルである。
この方の人生は私は知らないので、これからじっくり楽しませてもらおうと思うのだが、コシノ三姉妹の物語は舞台で観ている。(池端真之介さん、萬田久子さん、牧瀬里穂さん)
池端真之介さんが長女の役で、
「現代の女形として演じ続けていきたい。」
というようなことをパンフレットに書いていらしたのが記憶に残っているのだが、糸子さん(母)の役は赤木春恵さんであった。
エンディングで赤木さんが三姉妹と横並びで4人ミシンを踏んで、
「コシノの女はミシンを踏むんや。何があっても、どんなに辛いときでも、ミシンを踏むんや。」
と言うセリフを力強く語るのが印象的で、あれはいいエンディングだった。

舞台は昭和の始め、和裁盛んなりし頃、呉服屋の娘糸子(大正2年生まれ)が「ミシン」と出会い、洋裁に目覚めていく、という、そこからの人生劇である。

養母は明治四十年(それより7年前)生まれであるが、愛媛の実科女学校(家政科専門)から、隣町にある高等女学校に移った頃である。
実科女学校では和裁しか教わらなかった。
当時、地元に住む(田舎町である)先見の明のある女性が「ミシン」を購入して、洋裁を教え始めたという。すごい人気で、田舎町は借りたミシンで縫った「アッパッパ」(暑い所である)」であふれたという。
「ミシンはみかん山一つと同じ値段もしたんじゃ。おまえ、みかん山とミシン1台と、どっちが値打ちがあると思う?」
というのが、いつもの養母の謎かけで、私は迷わず
「ミシンだと思う。みかん山は人の手をうんとかけなければならないけれど、ミシンはそれ1台で食べてゆけるから。」
と答えていた。
養母はいつも答えを出さず。
「ふうん。」
と言うだけだった。

55歳年の離れた養母は、日本画家だった。
私も幼い頃から絵心に目覚め、養母と、同じ日本画家のパートナーに、
「日本画を教えて下さい、弟子にして下さい。」
と言い続けたのであるが、ふたりとも笑って
「私たちは明治・大正の日本画を紡ぎ続けているだけ。あなたは若いのだから昭和の日本画を学びなさい。」
と言うだけであった。紙とかパステルとか、画材は惜しまず与えてくれたのだが。

長じて私は学校で美術を学ぶ機を得、迷わず日本画を選んだら師が中島千波先生という大ラッキーを射止めるわけなのだが、
「あら、(中島)清之さんとこの末っ子?あれは小さい頃おもしろい子だったわねえ、描いてる絵もおもしろいし。せいぜい励みなさい。」
と言われた。中島清之さんは日本美術院の同人(幹部クラス)で、一時同じ土地に住んだ住んだ事もあり、ふたりは千波先生の幼い頃を知っているのであった。
学んで分ったのだが、洋画はカンバスに塗るところから始まるのだが、日本画は紙を作る(ドウサ引き)から始まる。そのドウサも手作りである。
ものすごく手数をかけて、やっと絵筆を取れる。微妙な工程の連続である。
養母とパートナーは、それ以上に手間をかけて、昔ながらの技法を守っているのだ、教えてくれなくて当然だ、と思い知った。

最後に私はパートナーから「私の弟子におなりなさい」と宣言され、小林古径先生の孫弟子、ということになるのだが、養母も数えたら「安田靫彦先生の孫弟子」と言うことにもなり、
「肩書きだけは『古径・靫彦・千波』三揃い」
という信じられないゴージャスさである(笑)。

しかし、私は「みかん山とミシン」を問い続けた養母の気持ちが少しだけ分るようになった。
養母は明治・大正の日本画、「みかん山」」を選び取ったのである。

「カーネーション」は半年間私を楽しませてくれるだろう。
わずか7年という幅を持ちながら、私は「もう一人の養母の姿」を、このドラマに追い続けるに違いない。

アラジンの魔法瓶2011年10月08日 15:13

先日、若い友人がアラジンの携帯魔法瓶を買った。
昔と変らぬ赤のタータンチェック柄である。
これは上等でロングセラーの印。
私が中学・高校と横浜の、港のそばの女子校に越境通学していた頃の必需品であった。

寒い多摩丘陵から朝星夜星、朝5時半起きの毎日である。
お昼は地下の用務員室で給湯器のお湯を各クラス大きなやかんに2つもらって、クラス費で買った緑茶を飲むのであるが。
みんなそれぞれにカップを持っていて、「玄米茶」を買うと修道女に「贅沢はいけません」と叱られた・笑。

小ぶりな魔法瓶にはいつも薄甘い紅茶を入れていった。休み時間や放課後に飲むのである。
各階にウォータークーラーがあったのであるが、遠距離通学の私には深い休息が必要だった。

よく友人たちと飲んだ。飲みながらたわいもないおしゃべりをした。
高等科に上がる頃には悪知恵もついて、制服のジャケットの内ポケットにミニチュアボトルのミントリキュールやブランデーをしのばせて、紅茶に落として飲んだ。
場所は人目のない塔の上り階段や、港を一望できる屋上だったりした。
「持ち物検査」などという発想のない、おっとりした学校であった。

コーヒーを持っていくときは移り香があるので、別の焦げ茶色の魔法瓶を使い、これは今考えるととんでもない事であるが、早朝の生徒会室で飲んだ覚えがある。
先輩方と、授業前に、ウィスキーを垂らして飲んだ。
とんでもない不良生徒であるが、木を隠すには森の中、まさか生徒会室で、ミニチュアとはいえ、ウィスキーのボトルが回されているとは、学校は毛ほども思わなかったであろう。
なにしろ先輩方は学年トップの成績を誇る秀才揃いであったのだからして。
(私はナゼか上級生からものすごくかわいがられたのであった。「変わり者」だからであろうか・笑)

36年選手の魔法瓶は今も堅固で、実家で煮豆を作る時の、豆のふやかしに使われている。
私の手から母に渡り、そしていつかは、また私が使うのであろう。

しっかりした造りの上等品は、日割り単価にしてみればとっても「お安い」のである。

てっぺん描けたか2011年08月31日 16:45

この暑い中洗濯物を干しながら、気がついたら「夏は来ぬ」を鼻歌でフンフンしていた。
この歌、本当は長いそうだが私は2番までしか知らない。

「夏は来ぬ」

卯(う)の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

さみだれの、そそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ

ちょっと、涼しい気分になった。

ホトトギスは、「不如帰、杜鵑、時鳥、子規」といろいろな名前がある。
鳴き声は

http://www.youtube.com/watch?v=2F_KfMB5lOs

なのだが、これが、日本の鳥ではナンバーワンではないか、というほど聴きなしが多い。

我が家では昔日本ウズラをつがいで飼っていたが、雄の鳴き声はどう聞いても「アジャパーッ!」であった。(伴 淳三郎ではナイ。)
これも江戸時代には「勝ち鳥」と呼ばれ、武士の間で鳴き合わせが流行って、連れ運ぶのに、腰に下げる小さな「鶉籠(うずらかご)」が作られたくらいである。
この時代の聴きなしは、「御吉兆」「知地快」「帳吉古」「吉幾利快」「嘩々快」とやたらめでたいものである。

ホトトギスはほんの一部をあげると
「ととさへ、かかさへ」(名古屋付近)
「天辺かけたか(テッペンカケタカ)」(江戸)
「トッタンカケタカ」「トッツァンカケタカ」(大分・島根県)
「本尊掛歟(ホンゾンカケタカ)」(「古今要覧稿」に、京師にては本尊掛歟と言う)
「ホゾンカケタカ」(京都付近)
「ホウガンカケタカ、ブクソナヘタカ」(美濃揖斐郡・ブクは仏壇に供えるご飯のこと)
「ホトトギス」(純日本の古来の聞きなしである。)
「ともにちよに」(共に千代に・813年、嵯峨天皇) 
「オタタカチョ」山形県)
「オタタカショ」(福島県)
「オトットコイシ」(長野県北信地方)
「弟恋し、掘って煮て食わそ」(能登・越中の境あたり)
「和尚とんでってこい」(不明)
と、まあこんな具合である。

私は両親共に江戸時代からの江戸っ子家系(「まっすぐ行って左」を「まっつぐ行ってしだり」と言ってしまう・笑)なので「テッペンカケタカ」と教わった。

が。

ただ今20歳の時から借りていたスタジオをたたみ、実家で本や物を整理中なのだが、その中には私が小さかった頃に描いた絵も入っている。
私が生まれて初めて描いた生き物は、人ではなく馬なんである。
住まいが成城大学の馬術部の近くだったので、母に連れられて馬を見に行くのがほぼ日課、馬場のところで一休みが常だった。

なもので。

馬はかならず脚から描いた。
人間を描くようになってからも脚から描いた。
普通子供は顔から描き始める。というか、最初は顔を描く。
「父の日コンクール」なんか顔の羅列である。
人物を描くときは頭から描いて手、胴、脚の順で、途中で飽きると脚のない「ユーレイ画」になってしまう。
ところが私は脚から描き始めるので、途中で飽きると顔のない「逆さユーレイ画」になってしまうんである。

「てっぺん描けたか?」
なんとんなく死んだ父の若い声が肩越しに聞えてきそうである。

東京の、昔の夏2011年08月30日 10:43

私が子供だった頃、東京の夏は、昨今のような「酷暑」ではなかった。
昼間は暑かったが、湿度は低く、夜になると東京湾からの浜風が練馬や世田谷の方まで吹き、エアコン(あの頃はクーラーと言ったな)どころか扇風機すらいらなかった。
寝床に蚊帳を吊り、豚の形の蚊取り線香焚きに火を入れて、子供は8時に眠った。
団地には鳩時計のように、
「8時だ子供はみんな寝ろ~!」
と窓からどなる男の子がいて、それがどうしたものかある夜
「8時だ子供はみんな死ね~!」
と言って、それが何日も御近所の笑い話になっていた。のどかなもんである。

風を遮る高層建築がなかった。
「今度建つ霞ヶ関ビルは36階建てだってさ!」
とみんなそれに驚いていたのだから、今の超高層ビルが林立する東京など誰も想像だにしていなかった。

数年前、汐留のJR貨物駅の跡地が(ものすごく広い)開発されたのだが、間の抜けたことに風の通り道を考慮せずてんでばらばらに建ててしまったので、中央区の夏の気温は1度上がったという。

1度といったら大変なものである。
その1度を埋めるために中央区の住人はエアコンを強くかけ、その熱風と1度高い浜風が中央区以西の地域に吹き、そこもエアコンをつけ、これはもう熱の負の連鎖である。
誰かビルを建てる前に気づく常識人はいなかったものか。
とにかく東京は暑い。
今日あたりやっと、日なたは暑いが日陰は涼しく、湿度の低い、「懐かしい夏日より」なのだが、これもいつまで続くのだろう。

気象庁によると今年は残暑も強いという。
くやしいことに最近の気象庁は当たるんである。
東京は明日から台風の影響でしばらく雨が続き、そのあとまた暑さが戻ってくるのだろうか。

言ってもしょうもないことだけど、そろそろ夏にあきました。

攻メルモ逃ゲルモ2011年08月11日 19:33

Aちゃんは悪い娘(こ)じゃなかった。それは重々承知している。

新宿の厚生年金会館へ行く道すがら、彼女はいきなり
「もう私、レズかもしれないんですよっ!」
と叫んだのだ。聞けば生まれてこの方ひとりのボーイフレンドも持たないという。金融関係の職場は女子社員ばかりだし。
だからといって「レズ宣言」とは。
「今『レズ』は差別用語だから『ビアン』とか『レズビアン』とか言ったほうがいいよ。」
なんて口を挟める状態じゃない、彼女の頭からは湯気がシュンシュン立ち上っている。
まだ22~3、クリスマスに足元を威嚇射撃されるトナカイでもあるまいし、しかしな、「焦る年齢」ではあるよな、なーんておばちゃんは考えちゃったりする。
「Aちゃん、背筋伸ばして歩きなさい、次の曲がり角で出会う人があなたの運命の相手かもしれないんだよ。」
と言ってあげるのが精一杯。

次に会ったとき、彼女は満面の笑みを浮かべて
「私、声優学校に行くことに決めました!」
おい待て、あなたの声はくぐもってて、聞きづらいくらいだぞ。
「お勤めしながら?夜学?」
「いえ、仕事はもう辞めちゃいました!」
あっちゃー、手堅いとこだったんだけどなー。
「そこでね、先生の1人が『君には特別な才能があるようだから、オフの時僕の私塾へこないかい?』って声かけてくれて。」
うわっちゃー、そこも有料でしょ。
「払いましたよ、2百万。」
当然返金は無いわいな。
「御家族は?」
「お父さんは最初反対だったんですけれど(だろうね)、結局認めてくれて、親戚中に『今度ウチの娘が声優になった』って電話で。(待て待て、声優学校に入学するだけで、デビューもキャリアもまだじゃろうが)」
「お母さんは?」
「ウチ、ずっと外で買って来たおかずだったんですけれど、お料理教えてくれるって。子供の頃はお母さんの手作りで、すっごく美味しかったんですよ。」
あ、それはよかったね。

2年ほどたって彼女からメールが来て、
「お元気ですか。私はいまB.L(ボーイズラブ)の同人作家です!」

恋人ができたとは言ってこなかった。
声優になったとも言ってこなかった。

彼女の人生は、攻めているのだろうか、逃げているのだろうか。
私にはわからん。知らん、もう。

バンジョーの始末2011年06月28日 01:57

ピート・シガーというバンジョー奏者のカントリーミュージシャンがアメリカにいる。
もう92才だがオバマ大統領就任記念コンサートではトリをつとめた。
日本では「花はどこへいった」を作って歌った人、といった方が通りがよいかかもしれない。
公民権運動家で知られ、「大理石の銀行」と「夜明け前が一番暗い」の2曲で私の心臓をわしづかみにした。

だいたい人は思春期になると「音楽」、しかも「楽器演奏」に夢中になるものだ。
ギターしかり、シンセサイザーしかり、「自分で弾いて」みたくなるものだ。
が。
私は楽譜が読めなかった。
市一番の「給食費免除率」(つまり貧乏街ってこと)の小学校を出、女子校ではレベルが違いすぎたので合唱は全部最初は口パクでカバーし。
弾いてはみたいが弾く楽器がない。
ハモニカなら複音式のCとC♯の2本を両手でがっちりひっつかんで「ロンドンデリー」「埴生の宿」位までは吹けたのだが、これも手作りの楽譜は「あがる」「さがる」つまり「↑」と「↓」の連続で、曲自体は頭の中に入れておくのである。
その点バンジョーの楽譜は五線紙と数字(この弦をおさえなさい)と2種類あって、数字の方なら私にも分る。
「次の県テスト、世界地理Bで学年一番とるから」と約束して、母に買ってもらってもらった。
なんのこっちゃない、私は世界地理だけはメチャクチャ強くて、卒業まで学年一番だったのだ。
値段は一番安いので3万円、ギターよりも高い「おねだり」だった。

しかーし。
買ってから気がついた、当時アメリカでは「ピッキング奏法(ピックを使う)」が主流だったのだが、日本で売られていた教本は「ストリング奏法(爪の背でかき鳴らす)」だったのである。
半日弾いたら利き腕の左手の爪は厚さが半分になっていて、これでは人生で一番の楽しみ「絵を描く」ができなくなってしまうではないか!
数ヶ月してピッキング奏法の教本が出たのだが…

画像を見てお分かりの通り、バンジョーの弦は変則である。
五弦目が途中から始まっている。(高音担当)
ギターなら弦を反対に張ればいいのだが…
………
専門誌で調べたら、左利き用のバンジョーは30倍の「90万円」であった。

かくしてバンジョーを弾くこと、あたわず。

スタジオをたたんだ今、私はこの苦い想い出のバンジョーを、捨てたもんかとっといたもんか、悩んでいる。

清水健太郎(年齢限定)2011年06月25日 06:45

まったくもってお恥ずかしい限りだが、私が6/16の「その名はゲイバー『砂かけばBAR』」で思い描いていた世界は清水健太郎の「失恋レストラン」の世界以外の何者でもない事が判明。
恐いね~芸能界と大麻・覚醒剤、の見本みたいな人だったけど、計算すると今頃塀の中なんだよなあ。
「ムー」と「ムー一族」が観たいぞ。
ちなみに清水健太郎はWikipediaで検索できます。華麗なる麻薬歴と芸歴で、けっこうなボリューム。

耕せ脳細胞!2011年06月02日 08:32

(リクエストがありましたので、サイトから転載しました・ちょっとお手入れ)


根岸、という東京の地名があって、江戸をちょっと離れた隅田川の向こう側である。
昔は雑木林が広がって、大店の寮(別荘)や、引退したお金持ちの隠居所、文化人の住む、ちょっとハイソな土地だった。
だもんだから俳句の下の句にこれを入れると(江戸時代なら)なんでも一応75点になっちゃうんである。
「初雪や 根岸の里の侘び住まい」
「夕涼み 根岸の里の侘び住まい」

これを川柳にもってくると、75点は「それにつけても金の欲しさよ」である。
「初雪や それにつけても金の欲しさよ」
「夕涼み それにつけても金の欲しさよ」

こんな知恵を私に吹き込んだのは、漢詩から連歌までやっていた我が父である。
私が「武玉川」に興味を持ち始めた頃少し教えてくれたが、事故で脳挫傷、3年間寝たきりで肺炎で亡くなり、宙ぶらりんになってしまった。

「六乳の三味線で、びんほつを弾いて叱られる道楽息子」の話なんかもしてくれたな、「六乳(むつち)」は三味線の皮の最高級品、「びんほつ」は端唄の「鬢(びん・髪型)のほつれは枕の咎よ(とがよ・浮気じゃないのよ)」という、入門唄。
いうなればストラディバリで
「さーいたー、さーいーたー、チューリップーのはーなーがー♪」
と弾いて叱られる、というような話だった。

そう言う時、父はスラスラっと原典を諳(そら)んじて見せて、職業はエンジニアだったけれども「女子校の漢文の教員になる(バンカラな男子校に比べておっとりしてるから)のが夢だった」というのも、あながち冗談ではあるまい。しかし戦後、科学、科学の世の中で、受かった国文を棒に振って、理科系に進まされたのである。祖父は、こうと命じたらてこでも撤回しない人だったからね。
それも大学では蚕の人工飼料の研究、会社では最終的に原子力エンジニア。なんじゃこりゃ。

落語のテープも200本ばかり遺してくれた。
びっくりするほど良いクラシックレコードのコレクションもある。
内田百間も私のとこからかっさらった上に買い集めて、多分全巻あるぞ。
遺さなかったのは金ぐらいのもんかもしれない(笑)。

こんなこと知っていても一文の得にもならないね。ただ、すごく楽しいだけ。
金は遺し過ぎられても困る。
私の知り合いには「大会社の一族で、相続問題決着まで26年かかった」という人もいるぞ。

脳細胞は、耕しても耕しても、無償で、無限だ。

まほろ駅2011年05月17日 22:07

母と映画「まほろ駅多田便利軒」を観に新百合へ。
今住んでいる町田を舞台としてロケをやった作品で、そういえば商工会議所のパソコン教室に通っていたときよく「エキストラ募集」の張り紙がしてあったな。
お客の年齢層が高いのは、やっぱり「地元映画」だからかな。
しかし、おちつかないもんである。
「バスターミナル」って言っているのに「バスセンター」の方へ走っちゃうし、横断禁止の道路横切っちゃうし、地元民でも絶対分からないってところで刺されちゃうし。近くに銭湯ないし。
地元民には分かっちゃってるからかえって落ち着かない映画であった。
しかしこの主人公ふたり(若い男)の不潔感漂う清潔さは何?
ズボンローウェストじゃないだけましか。(ローウェストだったら途中で帰る)
最初の包丁の意味は多分原作読まないと分からないんだろうな。

と、四の五の書いたが、作者は女子校の15年後輩の直木賞作家三浦しをんさんなんである。
しかも困ったことに、バイトの職場も一緒だったらしい。(以前書いた「カタギ時代」、2011/2/27の「T原書店」、お前のことじゃ。)
あそこはね、モノ書き志望には勉強になるよね、うん。

映画館を出ようとしたら手作りの「ロケ地マップ・イラスト、写真入り」の力作が貼ってあって、今は無きT書店の入っているビルが意味もなく書かれていた。
三浦さんのご指名なんだろうか。
サギ同然の劣悪な職場環境だったけれど、こうやってイラストで客観視すると懐かしいのが不思議だ。

川の畔に住む人は2011年03月03日 04:33

養母の介護で横浜に住んでいたとき、丘にある養母宅は同居が無理なので、丘を下った川沿いのアパート暮らしだった。
帷子川(かたびらがわ)という。風雅な名前である。
もっとも日本人がまだ「公害」というものに危機感を持っていなかった頃は、この川、上流の捺染工場(当時横浜は世界のスカーフの90%を捺染していた。グッチもエルメスも、横浜で染めて、本国で縁をかがってメイドインフランス一丁上がりである。)のピンクや黄色の廃液で染まっていた。
子供の頃から養母の家へ通い慣れた川の畔である。
私たちが移り住んだ頃はすっかりきれいになって、鮎を釣っている人がいた。
尋ねたら「食べるには適さないが、活かして置いて友釣りのおとりに使うのだ。」という。

「川の畔に引っ越した。」
と養母に告げると、
「それはふたりとも前世でいいことをしたんじゃろう。」
とたいそう喜んだ。何かと思ったら、川のほとりに住む人は、洗濯でジャブジャブ盥で洗わなくても、流れに沿って、着物の襟のところに大きな石を載せておけば自然と水流でがきれいになり、手間が省ける、というものであった。
多分奈良・平安にまで遡る日本人の知恵である。
昔の洗濯は重労働であった。
それからの解放を「前世でいいことをした」に置き換え、来世は川の畔に暮らせるように、現世で徳を積む。
「なるほどなあ」とドッコイと顔を合わせたものである。

明治40年生まれの養母には、何十代もの先人の知恵が詰まっていた。
もしも文明が衰亡して、原始時代に戻ってしまったら、ドッコイと私は川の畔に住もうと思う。