おかね2011年12月02日 23:01

おかねは借りるもんではなく、貸すもんでもない。
「借りて不仲になるよりも、いつもニコニコ現金払い」
をもじって、
「貸して不仲になるよりも、いつもニコニコ門前払い」
というジョークがあるくらいである。

昔の人はよく言ったモンで
「借りるときはえびす顔、返すときは閻魔顔」
ということわざもある。なるほど、貸してもらうときは「ああ助かった」と笑みもこぼれようが、返すとなると工面をつけてのやりくり算段、表情も渋くなろうというものだ。

もう最初から、絶対に返ってこない借金というものもある。
昔の知り合いRちゃんはオートレースの選手に入れ込んでふだんから貢いでいるようだったが、彼が公道で人身事故を起こして、よりにもよってプロのくせに保険に入っていなくて、
「今日中に500万円作れなければ彼は刑務所行き」
という状況に陥って、知り合い先輩みんなに借りまくって、風のように姿を消した。

久世光彦は「向田邦子との20年」の中で、脚本家として駆け出しでまだ収入の少なかった頃の向田邦子の事を
「天から降ってくるお金は大切に使ったが、決して地面にかがんでまでお金を拾おうとはしなかった。」
と書いている。天から降ってくるお金は「堂々の報酬」だが、地面から拾うお金は「しょせん他人のもの」である。

お金は立て替えるものでもない。
かつて私は友人のお祝い事に「4人でまとめて1本(1万)包もう」と言い出しっぺをしたのだが、あとで払ってくれたのはひとりきり、のこりののふたりからは忘れられてしまっている。
それはそれでいいと思う。その程度のことなのだろうから。払わなかった人はすっかり忘れているし、額もたいしたものではなく、この年でいい勉強をさせてもらった、という感じである。
むしろ、それまでが世間に対して不勉強だった。
「スマートに催促するタイミング」を逃してしまった、そのあとも不遇にして催促する機会がなかった、それだけのことである。
ただ、もう私は、冠婚葬祭のドッコイ氏を除いて、誰とも連名ではおかねを包まない。それだけである。

ずっと昔、まだ貧しい頃(といって今が裕福なのでもないが)いちどだけ、おかねをあげたことがある。
相手はドッコイ氏である。急な引っ越しで始まった、養母とそのパートナーあわせてふたり分の介護と、おかね目当ての親戚のゴタゴタと、その合間を縫ってする仕事と、鬱病の発症で、私は彼を置き去りにしてしまった。
やけにたばこ臭く帰りが遅いのも「連日煙草を吸う人達との会議で遅いのかな」と、おめでたく思っていたら、会社近くの金融業各社から(リストに載ったらしい)「お金すぐ貸します」のはがきがジャンジャン舞い込むようになって、やっと気付いた。
たばこ臭いのも遅いのも、ギャンブルゆえであった。
今まで絵や漫画を描いて少しずつ原稿料を貯めていた通帳を崩し、
「いい?この魔法は一度だけしか使えないからね。」
と、彼を銀行に送り出す、その背中を眺めている私の顔は、たぶん「泣いた閻魔さま」のようだったと思う。

と、いうわけで、我が家では「無いおかねは使わない」ことにしている。
今度の引っ越し先も、ローンを組まずに即金で買った。(古い分譲団地だからとても安い。)
実家から徒歩5分。老後を助けると言う名目で、母からはいくばくか「おかねをもらった」。

おかねはきれいに使うのが一番である。
なければ使わないのがよろしい。

トホホのホ2011年12月05日 02:30

ドッコイ氏の出張が1週間延期から「何日になるかはわからないけど年内」へと更に延期になりまして。
「お~いドッコイや~い」
…以前タイに出張のときは、なんのかんので半年に延びたもんなあ。
どうしよう、引っ越し…トホホ~。

脚本家・市川森一さん逝去2011年12月10日 22:48

市川森一さんが逝ってしまった。
「20年後のブースカを待つ会(会員私だけ)」の会長としては1966年の最終回で「20年後の地球に戻ってくる」とう設定になっているので、1986年から夢をつないでいたのだが。
ドラマ「蝶々さん」が放映されたばかりなので、てっきりお元気なのかと思っていた。
とりあえず'82年制作の「淋しいのはおまえだけじゃない」はDVDで持っていて、「向田邦子賞の第一回受賞者」として心に刻まれている。
劇中劇の、梅沢富美男の「矢切の渡し」が評判を呼び、レコーディング7年目でちあきなおみの大ヒット曲(実はB面)となったのだが。
何かのシーンの背景で泉ピン子がぼーっと「寺内貫太郎一家(向田作品)」の再放送を見ていて、遠い画面に小林亜星さんがアップになる、というお茶目もあるのだが、あれはいいドラマだった。
「喋々さん」は録画したが観ていないので、これから見よう。
それにしても久世光彦といい、井上ひさしさんといい、市川さんといい、惜しい人がどんどん亡くなっていくなあ。「シオシオのパー(ブースカ用語で『しょぼ~ん』)……」

満月でしたね2011年12月16日 19:26

「AKB48」と「AKO47」の区別がつきにくい私の家宝は
三波春夫先生の「大忠臣蔵4枚セット」である。

口からなんか2011年12月17日 05:14

アフリカにいるドッコイ氏とやっとこさにメールのやりとりが出来たのが、話題は市川森一さんの訃報とウルトラセブン。

「アタマの上のものを投げる」
「光線はとじたチョキで白ごう(変換できなんだ)を押さえる」
「肩から胸にかけて瓔珞がある」
で、ウルトラセブンは仏教系に決定。

ちなみに正義の味方と悪役の見分け方は

「口からなんか吐かない」

で唯一例外なのが中頃のゴジさん。

真実と愛はうそと憎しみを克服する・ハベル元チェコ大統領逝く2011年12月19日 03:49

ニュースは消えていってしまうものだから、ここにつなぎとめておきます。

「(毎日新聞)
 【ウィーン樋口直樹】旧チェコスロバキアの共産政権を非暴力で倒した「ビロード革命」(89年12月)の立役者で、民主化後初の大統領を務めたバツラフ・ハベル前チェコ大統領が18日、チェコ北部の別邸で死去した。75歳だった。死因は不明だが、長年肺を患い、96年には肺がんの手術を受けていた。現地メディアなどが伝えた。

 「ビロード革命」--。流血を伴うことなく、ビロードのようになめらかに進んだ民主化革命のことをこう呼ぶ。「反体制派劇作家」と称されたハベル氏は「真実と愛はうそと憎しみを克服する」をモットーに、平和的な民主化移行と自由経済の導入を成し遂げ名声を得た。

 旧チェコスロバキア大統領の後、93年にはチェコとスロバキアの分離に立ち会い、チェコの初代大統領を2期10年務めた。」

まずチェコスロバキアとして共産圏から別れたが、チェコとスロバキアはまったく別の文化を保つ民族なので、手際よく、どちらも納得できる形で分離させた政治家である。
ユーゴスラビアの「ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争」のような悲劇を、まったく起こさなかった。
これは当時としては奇蹟的な出来事だった。

名政治家とはこういう人のことを言うのだろう。
比べて日本は…

強姦2011年12月20日 02:59

されそうになったことがある。真っ昼間である。とっさに学生カバン(中に辞書が4冊入っていて15キロくらいある)をブン回したら相手の横ッ面にヒットして、難を逃れた。
私はまだ15~6歳だった。
運良くカバンを振り回すスペースがあったから助かったものの、本当に強姦されてしまっていたら私の後の人生観はまるで違ったものになったしまっていたと思う。

ニュースは消えてゆくものだから、しばらくここにつなぎ止めておきます。

【時事通信】 韓国の季明博大統領は18日の野田佳彦首相との会談で、ソウルの日本大使館の前に元従軍慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて「日本政府がもう少し(慰安婦問題に)関心を見せてくれれば起こらなかった」と指摘した。
その上で「誠意ある措置がなければ、第2、第3の像が建つ」と警告した。
韓国大統領府が明らかにした。(以上)

従軍慰安婦に関する記事をもうひとつ

【毎日JP】質問なるほドリ

質問なるほドリ;慰安婦問題を首脳会談で韓国が取り上げたのはなぜ?=回答・西田新一郎

なるほドリ 韓国の季明博(イミョンバク)大統領が野田佳彦首相殿会談で、旧日本軍の慰安婦問題の解決を求めたね。

記者 大統領は就任以降、表だって慰安婦問題を取り上げてきませんでした。しかし、今回の首脳会談では「両国関係に障害物になっている従軍慰安婦問題を優先的に解決しなければならない」と訴えました。

Q なぜ今回取り上げたの。

A 韓国の憲法裁判所が今年8月、「韓国政府が元慰安婦の賠償請求権問題の解決に向け努力していないのは元慰安婦の人権を侵害していて、憲法違反だ」という判断を示しました。判断の後、韓国側は日韓外相会談などでこの問題を取り上げ、日本政府に応対を求めてきました。しかし、日本政府が応じる姿勢を示していないからだとみられます。

Q 日本政府はなぜ応じないの。

A 日本と韓国が国交を正常化した65年の日韓基本条約に伴う協定で両国間の請求検問題は「完全かつ最終的に解決された」と確認しているからです。ただ、実際に慰安婦問題が注目されるようになったのは90年代初頭からです。韓国側は、国交正常化交渉の時点で議論されなかったことから、慰安婦問題は協定の対象に含まれていないと主張しています。

Q 日本は慰安婦問題で謝罪をしていなかったっけ。

A 93年に当時の河野洋平官房長官が談話を出し、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とし、お詫びと反省の気持ちを示しました。その上で、道義的責任を果たすために国民からの寄付金と政府が事業資金を拠出する形で95年に財団法人「女性のためのアジア国民年金(アジア女性基金)」(07年に解散)を作り、償い金や歴代首相「おびの手紙」を送りました。

Q 韓国では受け入れられなかったということなの。

A 韓国では償い金などを受け取らなかった人が多かったといいます。日本政府が改めて謝罪と賠償をすることを求めているようです。

Q 接点が見当たらないね.

A 民主党の前原誠司政調会長が10月に訪韓した際、アジア女性基金にも触れながら「人道的見地から考える余地がないか」などと述べました。しかし日本政府は否定的で、新たな措置を取ることは難しい状況です。慰安婦問題は当面日韓関係をぎくしゃくさせそうです。(政治部)

(以上)

(蛇足だが1965年といえば韓国はまだ朴大統領の独裁政権で、戒厳令が敷かれ、夜は11時を過ぎると人っ子ひとり出歩けず、民主主義の波もまだ起きていない、無茶苦茶な時代である。)

昔、日本が戦争に負けて進駐軍が日本にやってきたとき、やはり慰安婦として「パンパンガール」という存在があった。
学生時代の母がこのパンパンガール狩りにあって駅前で無理矢理トラックに乗せられ
「私、女子師範の学生なんですけどー!」
と必死に叫んで降ろされた、あとの若い女性たちはどこへ連れて行かれてしまったのか。
自分から、生きていくためにパンパンガールになる女性もいたし(DVD「浮雲」・主演高峰秀子・傑作である)私が5~6歳の頃、上の世代は
「ヘイ、ミスター、ナイスガールいるよ、ファックOK、カモンカモン!」
などという女衒(ぜげん)の言葉を、どこで聞いたか訳も分らず使っていた。


アメリカ軍の(下請けだろうが、とはいえ)駅前トラックホイホイ乗せも荒っぽいが、日本軍は「まかないの仕事だから」とだましたり、家族の強制連行をほのめかしたり、ねちっこい手を使った。
当たり前である、儒教の韓国で進んで慰安婦になりたいものなぞ、いない。
江戸屋猫八さんだったか、軍隊経験のあるタレントさんが、インタビューで
「小屋のね、前にもうズラ~と列になって待ってるわけですよ、兵隊が。手にはコンドームね、『突撃一号』といってね。」
と悲惨さを語っていたな。

もしも母があのときトラックから降りられなかったら、私はもっとずっと早く産まれ、肌の色は白かったり黒っぽかったり、髪の色は栗色だったり黒いチリチリだった可能性がある。
間一髪で逃れた母はめでたく「小学校の先生」になったが、教え子に肌の色の違う子や髪の色が違う子がいて、周囲から差別されないように気を遣ったという。

儒教の国だから言い出せない恥、独裁政権だから言い出せない言論の不自由、「ハードル」はしつこく、高く、幾つもあったはずである。

『女性の人権』という観点から見れば、従軍慰安婦問題はまだ解決していないし、第2、第3の少女像が建ってもおかしくはないのではないかと私は思う。

(あ~、手書き写しは疲れた~・苦笑)

「みんな死んじゃった」という本2011年12月22日 06:50

清川虹子さんは女優で(映画「楢山節考」で有名)2002年になくなったのだが、最後の聞き書き「みんな死んじゃった」(1999)はなにげなく甘損で買ったら、ヒットであった。
サブタイトルは「私の愛した喜劇の夫たち」であるが、芸能界全般に渡り、関わった縁故者のことをとりあげていて、判淳三郎がいかに好色だったか、とか、ポール牧はテレビの指パッチンの芸だけではなく才能ある喜劇人だったとか、とか、藤田まことは登場したときから光っていたとか、来年50歳で子供の頃テレビをほとんど見ていない私でも、
「あ~、この人、分る分る!」という細やかな筆の運びで、聞き書きの人の腕がものすごく良い。
特に「サザエさん」で脇をつとめた江利チエミのことに詳しく(清川さんはフネさんの役)芸能界への登場からその死まで詳しく書いてある。
ビートたけし氏が「寝ゲロを吐いて死んじゃった」といったのがいいところで、ミュージカル「江利チエミ物語」では「風邪薬と睡眠薬をあわせ飲んで死んだ」などと美しいことになっているのだが、バッサリ一切り
『ブランデーの牛乳割りを呑んでいて、つまみのお寿司が咽に詰まって死んだ』
と真相を語っている。
「ブランデーの牛乳割りなんて呑み方を教えたのは私で、そんなこと教えなきゃ良かった。」とも。
高倉健さんとの結婚と離婚についても、チエミさんの姉による詐欺事件についても詳しく書いてあり、「江利チエミ&判淳ファン」にとってはたまらない1冊である。
それと、まだ合法であった頃の、芸能界の「ヒロポン中毒」についても、実に詳しいので、そちら方面に興味のおありの方にもお勧めの1冊である。

ドッコイ氏帰国2011年12月24日 09:04

ドッコイ氏が帰ってくる。
アフリカの、かなり危険な国で、外国人の一人歩きは認められず、食事に行くのにも雇った運転手と車で移動という物々しさだったそうであるがとりあえず「41日の予定が52日で帰国」というのは、延び延びになりがちな会社の仕事にしては、まあ「こんなもんかな」という感じ。
昔はもっとすごかった。

1・「タイに3ヶ月」の予定が、延びに延びて結局「半年」になったりした。しかもその間応援のため「極寒の2月のパリ経由」で「灼熱のでアフリカ班と合流」と、、ビザが切れるので1泊2泊でシンガポールに滞在(そんなら1時間でいいから日本に帰って顔見せてくれ!)とか。
2・イラクに行っていたら戦争始まっちゃって、とりあえず荒れ野を車飛ばしてクルド人居住区へ避難とか。

ひとたび出国したら、待つ方は腹をくくるしかない。
国によってはまったく連絡がとれない場合もあるので、待つ身は辛いが、最近は携帯電話とインターネットの普及で、何とか連絡のとれる国が増えてくれて嬉しい。
ただ今回は電話の電波状況の悪さと(首都近辺以外繋がらない)パソコンの不調が重なって、かなりしんどかった。

何のかんの言ってドッコイ氏は不思議な職業の人である。

「千万(ちよろず)の 軍(いくさ)なりとも
  言挙(ことあげ)せず 取りて来ぬべき 男(おのこ)とそ思ふ」
(万葉集・6巻・972番 高橋虫麿の歌)

(「言挙」とは言霊による祈りで、「エイエイオー」のもっと強烈なヤツのこと。)

「じゃ、行ってきます。」と、よいこらしょっと重い荷物を持ってふだん通りに行ってしまうこの人の,背中を,私は何度も何度も夢に見るのである。

実況中継2011年12月25日 04:25

朝、日本着のはずのドッコイ氏が帰ってこないのです。
  
ひとりでお昼を食べてふて寝している奥さんの顔の上にドッコイ氏がニューっと顔を見せました。
「ただいまおくさん。」
あーびっくりしたー!
しかも帰りは背広でもなく、いつものパーカーなので、まるでちょいとそこまで行って帰ったような顔をしております。
いったん会社に寄って荷物を置いてきたのでライブラリーバックひとつです。
お昼は会社そばの洋食屋さんで牡蠣フライをたべてきたそうです。

嗅いでみましょう。くんくん。
(これは私のいつもの行事)
ラウンド髭の回りはフライの香り。
でも、お、背中はスパイスの香りが…日本と違う。微妙にスパイシー。

頼んでおいた新聞もフランスで買って来てくれました。
「Le Monde 」と「Le Figaro」、週末でおまけが何版もついてくるので高いですね€9.9です。
「Le Monde 」はアルセーヌ・ルパンの特集のようです。
「Le Figaro」には死んじゃったキムさんの写真も載っております。
52日分の手紙を片っ端から読んでいます。
それが済んだら車屋さんに行って、スノータイヤにつけ替えてもらい、そのあと行きつけのドイツハムの店に寄ってベーコンを買うそうです。
で、夜は芳子さんの家に行って、アフリカ内陸では食べられなかった「お刺身」をご馳走になる予定。
しあわせそうです。
   
(中略)
   
ドッコイ氏は今、夜中に起きちゃった私の横でぐうぐうとZ旗を盛大に上げながら眠っております。(Z~Z~Z~Z~Z~Z~Z~・笑)
部屋が暖かいです。
人間ひとり600Wの電気ストーブ相当の熱を出しているそうですが、ドッコイ氏は体格からいって800Wは出しておりますので(笑)。
大きなクリスマス・プレゼントのようです。
帰国が遅れたのは現地で大統領選挙とバッティングしちゃったからで、前回散々流血騒ぎを起こして死者まで出たので、戒厳令が敷かれてしまったからでした。
そういう国にドッコイ氏は行くのです。日本は、とりあえず平和だー。
「一人じゃないって素敵なことね♪」
と実感されつつ、ふと気がつけば天地真理(お若い娘さん、四文字熟語ではありませんよ)さんの歌とまったく重なっていることが分り、
「天地さん最近どーしてるんだろーなー」
などと思考がすっ飛ぶ午前4時です。