実は離読症のエッセイ好き2011年10月13日 05:09

ものすごく困ったことなのだが、私は離読症のケがある。

中学の時発症して、小学生の頃は毎月3冊買ってもらっていた「岩波少年文庫」が、「岩波新書」にスライドしちゃったのである。
漫画は読めたし(中学1年で友人と「横山光輝・水滸伝全巻」と「萩尾望都・ポーの一族&トーマの心臓全巻」を取り替えっこしたのが漫画家になるきっかけだった)森有正さんの経験論哲学はどっぷりはまって読んだのだが、小説だけなぜかパッタリ読めなくなった。

代わりに「失われた動力文明」とか「アラビアの医術」とか「ウンコによる健康診断法・カラーガイド付き」とか「あなたもできる喫茶店経営」とか(高校生で!・笑)、岩波から光文社まで、手当たり次第新書を読み、それに世界地理・美学書・画集・写真集・物理学書・ルポルタージュ・ドキュメンタリー・哲学書・宗教書、と、小説以外はなんでも手にとった。

大学に行って、古本屋で見かけた辻邦生さんの「回廊にて」を何気なく手にとって、また小説が読めるようになったのであるが、以来、読める時期と読めない時期がはっきり別れている.

今は読めない時期で、ケストナーの「5月35日」を手にとっても、気分が悪くなり、本棚に戻してしまう。何も頭に入ってこない。代わりにエッセイ、「向田邦子との二十年」(久世光彦)をゆっくり、読んでいる。

新聞もそうで、今はほとんど目を通せない、が、気合いを入れると最低必要限はなんとか目が拾える感じ。
いっしょに取っている「AERA」もざっと目を通すだけ。
そのくせ本屋に「ハインリヒ・ベル短編集」を注文したりしている。

本の山は積もる一方で、もう普通の人の一生分以上あるのではないか。

その荒れた読書歴の中で、エッセイ、これだけは途切れなく読んできた。

ちょうど中学2年の時に木村治美さんの「黄昏のロンドンから」が出て、今や大学名誉教授の木村さんだが当時は2児の母、専業主婦の視点でロンドンという都市での生活、イギリスの文化、歴史などが柔らかい言葉で書かれたもので、画期的だった。
夢中になって読んだ。

カタブツの英文学者などの反発はすごく「たかが一主婦の分際で」と「これぞ正統派ロンドン!」と言う本が次々と出たが、どれもやたらもったいぶっているだけで新鮮な視線というものが微塵もなく、つまらなかった。
その時、確か青木雨彦さんだと思うが
「主婦がエッセイを書いてベストセラーになったからといって驚いてはいけない。千年前には蕎麦屋の娘の日記がベストセラーになっているのであるからして。(更級日記のことよ・笑)」
と、上手く揶揄して、論争に終止符を打っている。

どこかの「子供相談室」で
「さくらももこさんのような有名なエッセイストになるにはどうしたらいいですか?(私はさくらさんのエッセイは初期の2冊しか読んでいないので、今有名かどうかは知らないのだが)」
の答えが
「まず別のジャンルで有名になることです。」
だったのには、笑えた。

私の「主成分」は、田辺聖子さん、永六輔さん、なだいなださん、森有正さん、島村洋子さん、向田邦子さん、青木玉さんなどなどのエッセイで出来ている。
いずれも「高手」であり「巧手」な方々なのが、ラッキーだった。

足元にも及ばないのだが、一ブロガーとしては良い巡り合わせだと思う。