惚れられ上手の振られっ下手2010年11月03日 04:45

そんなに恋多き奴じゃないのよ、両の指あわせたくらい。
自分から好きになるんじゃないの、私いつもボ~っとしてるから。
向こうから好いてくれるの。
でも、「好きだ好きだ、あなたがいないと世界が終わってしまう!」と惚れられた私は、
「え~い、お前なんかもう世界からいなくなってしまえ!」って、天晴れな振られ方したりするんだわ。
(ホント、学校では「相手を傷つけないスマートな恋の振り方」みたいなこと教えてくれないのかね。)
別にこっちが裏切ったりしていないのにね。
みんな自分のことを聞いてもらいたがって、私は「ふむふむ、ふうん。」と聞くんだけれど、
「じゃ、こんどはこっちの番ね。」と私が自分のことをしゃべり始めると、みんな見事に引くんだわ。
そんなに毒っ気のある人生歩いてきたかなあ、私。普通の人より人生エピソードは多いだろうけれど。

いつも夜中に電話がかかってきて、寝てたけど
「ああ、この人『今、私としゃべりたい』んだわ、ならつきあうか。」と思って十回、こちらから夜中に声を聴きたくなってかけると「こちらの時間を奪わないで。」だもんな。
都合のいいゴミ箱じゃんか、ま、いいか、いいゴミいっぱい捨ててもらったも~ん、なんて。
振られたあとに泣き暮らして、立ち直るときは「ネタになるな。」と分析している私。
どこまでいっても「ものかき」なんだなぁ、結局。

立川談志狛犬2010年11月06日 01:09

私がいままで出会った中で一番立川談志に似ていた狛犬
阿「おい、熊さんや」

吽「なんでぇ、八っあん」

(隅田川三囲神社にて)

ドッコイや~い2010年11月06日 20:16

だいたい行っちゃってから1週間~10日が寂しいピークなんだなぁ。
だけど今回は地球の裏っ側じゃなくて時差2時間だから気持ち的には楽。
電話したら、土日も働いているそうです。なんてこった。
ただ、万事のんびりしていて、1日おきに2時間マッサージ(8ドル=640円)で揉みしだかれているらしい。
それはうらやましいぞ。こっちは寒くって筋肉痛だいっ!

締め切り2010年11月08日 02:26

今月は珍しく絵と文章と2本締め切りあって、11月30日〆の文章の方が先に出来ちゃって、それはもう送ったからいいんだけど…
絵!漫画!同人誌です!これは印刷所に頼むには最低20ページ必要で、しかも印刷に10日かかる、と。(最速便でも丸5日)
自分ちでプリントするには、あららプリンター紙詰まりで治してくれるドッコイは外国、表紙が刷れないわー。どうしましょ。
けっこう平淡に言っているけど、実際にはおしりに火が付きまくっております!
だいたい脳炎で「描けない」人が無理して描いちゃうってところからして、むちゃくちゃ。
描いていても、「あ”-、自分の絵じゃないな、これは。」という横車押すような技術の、下手な鉄砲撃ちもろ見えで、テンション下がる一方。
しかしイベント主催の方には「23日出ます!」って言っちゃったもんな。
描く以上はよりいい結果出さないと。

ここで愚痴。
文章の方が、手に取らせるのは大変だけど、「百万の大軍が押し寄せてきた」って13文字で表現出来ちゃって楽。
絵、特に漫画は、ラスト・脳内ドーパミン出まくりで心は走っているときに一番細かくて「走れない」作業なところが苦しい。
脚本家の向田邦子さんは遅筆で有名で、最後に「四人が」と書く時間が無くて「三」に一本足したって知ったときは、
「いいなぁ~~~~~!」
って思った。
筆の走らせどころが違うんである。
だから日本のマンガ家は、プロダクションシステムとって、本人はアイディア・マン(しかもこれにもサポートが付いている)の男性作家の方が作家生命長いのよ。
水木先生ややなせ先生のような例外はもちろんいるし、浦沢直樹さんとかは、人物は自分で描いておられますが。

ま、しかしとにはかくあれ自分なりに結果出さないと。
千里のリハビリも1本の線から。
その点、「アルコール依存とホームレス生活から一度は手放した『線』を取り戻した吾妻ひでお先生」は「希望の星」です。
とにかく描かなきゃハナシは始まらないワケで、コンビニコピーでいいから、漫画描こうっと。

義父は99・9%、24時間以内に死ぬ2010年11月09日 00:18

義父が倒れた、もうあぶないという連絡が入ったのは8時である。
ドッコイはカンボジアなので、大急ぎで母と諏訪に向かった。3時間の片道が遠い。
病院に着くとICUのベッドに義父はいた。
胸の動脈が破れ、手術はしたが輸血がどんどん出血してしまうという。

もともと高山病のように、圧縮した空気をいつも鼻からチューブで入れていた。
風邪は絶対に引けず、伝染してはまずいので帰省できない正月があった。

腎機能が止まり、肝機能が止まり、流れ出る血液と共にどんどん義父が死んでゆく。
親戚の男性は(私の知らない人)
「医師はもう99・9%助からないと宣言しました。」
としたり顔でいう。
お義母さんは無言で、ふたまわりも小さい。

それでもまくら元で
「お父さん、信子です」
と言うと、右まぶたがかすかに動いた。
「ドッコイさんは明日帰ってきますよ」
というと、上唇がぴくりぴくりと2度動いた。

ドッコイはカンボジアの田舎から3時間かけて首都プノンペンへ出て、直行便がないのでいったん西へ、タイの首都バンコクで東京行きの飛行機を待っているだろう。
日本の成田に着くのは夜が明けてから、町田にはさらに飛ばして2時間、そこから諏訪まで車で3時間。
ドッコイは間に合うのか、もうそろそろ飛行機に搭乗したのだろうか。

間に合ってほしい。

義父の死2010年11月14日 21:20

義父が逝った。
ライオンのような人だった。

お義父さん2010年11月15日 00:19

でもヨメの私にはすごく優しかったな。
金線水晶のアクセサリーいっぱいもらった。
(アクセサリーは嫌いなのでどれもつけなかったけど)
いつの間にか「このヨメはアクセサリーじゃダメだ。」と分かったらしくて、
ドッコイと同じようにキャッシュでお年玉くれるようになりました。
ウチは貧乏なので、それでお互い好きなモノ買って、楽しく贅沢したなー。

骨董・古美術(悪い業者にだまされていて、みごとにみんなニセモノだったけど)が趣味で、新聞に訃報を載せるとき、銀行の支店長の伯父さんが
「それじゃ税務署がおしよせるから。ニセモノでもみんなホンモノに課税するから。」
ということで「趣味・庭いじり、旅行」になりました。(ドッコイの田舎の新聞は訃報に「趣味」まで載る。)
少しずつ、思い出すことなどつらつら書き。

ソフト荒縄縦結び2010年11月16日 23:58

いやはや、相続やら土地やらちょこっとだけ持っている農地やら、ややこしい手続きをこなして4日遅れでドッコイが東京に帰ってきた。
でもまだお役所仕事があるらしい。めんどくさすぎるぞ、日本の法律&お役所。

めんどくさいといえば、ドッコイの故郷の葬儀の風習、これが各町の、それぞれの地区によってまた異なるらしく、葬儀屋さんが大汗かいてた。
足袋は逆さに履かせるは、頭陀(ずだ)袋には六文銭のほかにクルミの粉と糠と山椒入れるは。
それをやっている親族は、ビニール製の荒縄(5メートル位にカットして「ソフト荒縄」という商品名で、大人のおもちゃ屋さんでバカ高く売られておりますが、業務用はものすごく安いです:ナゼ知っている!←仕事がらみと、一応言い訳)これを左肩から袈裟懸けに結ぶんですねー、縦結び。
脚絆も手甲も三角のあの頭につけるのも(何て言うんだろ?葬儀屋さんは「帽子」って言ってたけど、ちと違う気がする。)み~んな縦結び。

さらに、葬儀屋さんが
「これをご参考に…」
と渡してくれた通夜・告別式・葬儀用のプリントが、これがもうでんぐり返りモノで。
これはまた「アンチョコ編」で。

続・お義父さん2010年11月19日 23:36

しかし田舎の(しかも世帯主の)葬式ってなんて長いんだ!!もうタイムリミット、「江戸桜7」新刊忌引き落ちします。

実父の葬儀が「半日、しかもカジュアル」だった私は、隣組の通夜の翌日親族の通夜があり、納棺・火葬と告別式がまた別々、というのに驚いた。
着替え持ってくべきだった。(東京はだいたい一晩と一日で済む)洗濯小屋も使用禁止、台所とトイレとストーブだけが機能している。

そういえば、私の結婚式の時結納はなかったが、親族の釣書だけは交わしに諏訪へ行った。
運悪く父は三叉神経痛で真っ青な顔色で、母は養母の家の改築で疲れ切って、なんとか合わせた日程だった。
が、ドッコイん家は親戚は集まっていたがお義父さんがいない。
急な葬儀で出かけたということだった。
にしては、ふだんしっかり者のあ義母さんは心ここに在らずの表情で、親戚もそわそわしている。
ドッコイに問いただしたら
「横浜の結婚式の方が嫁を取る諏訪の披露宴の日よりが早いのは道理が合わない。こっちを先に立てろ。」
とひと晩中どなりあいのケンカをして、朝早くにキノコ摘み狩りに行ってしまったそうな。
気まぐれな養母が2ヶ月前にいきなり、普通1年前でも予約がとれない
「横浜山手教会で挙げなさい。」
と言い出して、母校のコネ、他の教会のコネ、知り合いの大金持ちのコネ、とにかく5つくらいコネを使って、奇跡の2ヶ月取りしたのだ。
出席者に案内も配って、今さら無しにはできない。「式」あっての「披露宴」という順番は通用しない、とにかくなにがなんんでも「地元が先」。
「お義父さんは地元優先で気難しい。」
帰りの「あずさ」は混んでいて座れなくて、立ったままドッコイのブレザーの厚い胸にに顔を押しつけて、泣いた。

なんでも大きい物が好きで、飼うのはジャーマン・シェパードだったし、もともと農家なのに地場産業で出世して、最近骨董で「刀をかまえる鎧武者」なんて不吉なモノ買って飾っていたし。
この甲冑のおかげで私はえらい目にあっって、結局昨日まで寝込んで、「江戸桜7」に「忌引き」で新刊落とすのだ、なんてこったい。
「死人は引く」とはよく言うが、今回メチャクチャ引かれて、きのうまでのたうって寝込んでおりました。

養母の死の時も、ふだん50ちょいの体重が38まで落ちて引かれまくり。父のときっはいっきに76で心臓にきて。
今度は鎧武者に引かれ、なんとかならんかこの「引かれ体質」(苦笑)。

「江戸桜7」2010年11月23日 21:19

というイベントに行って来ました。
何かというとTVゲーム「サクラ大戦」のファン同人誌イベント。
サクラも日本・巴里・紐育と3組出て、「1組だけ」というのはあっても「オール」はここだけ。
年に1度の楽しみなお祭りです。(規模小さいけど・笑)
「サクラ大戦」というのは、お若い方はご存じないでしょうが、出て15~6年?
「もしも大正時代が『太正時代』で、蒸気文明の高度に発達した世界だったら」という、「ifの世界」なんですね。
タイプの違う女の子達が蒸気甲冑に乗って悪と戦うという、ま、「ギャルゲー」です。
ただ、世界観がおもしろいのと、田中公平さんという天才作曲家が渾身の力を振り絞って作曲にあたったこと、声優さんが良かったことと、ファンの結束が堅かったことで、今日まで続いています。

実は私が、大学生~しばらく触れて離れていたパソコンの世界に戻ったのも、こうやって今文章を書いているのも「サクラ」のおかげです。

1990年代、私は仕事をしながら、養女でしたので年の55離れた(明治40年生まれ)の養母とそのパートナーの介護をしていました。
ふたりとも「日本画家」という職業故気むずかしく、どんどん衰えてゆく心身に(子育てと逆ですね)、すっかり疲れていました。

「あなたのお養母様と同じ時代のTVゲームがあるわよ。」
と、友人が教えてくれたのが「サクラ大戦」。
そこには、認知症で何百遍も聞かされた彼女たちの十代後半、青春時代がいきいきと描かれていました。
笑いながら駆け下りた本郷・菊坂。おやつに買った「燕明軒の豆パン」。断髪にして「モガは不良だ!」と退学寸前の騒ぎになったこと。
突然そのモノクロだった世界がカラーで見え始めたわけです。

それは新鮮な輝きでした。

私は「同人誌」というものをひとりで始めて描き、本を出し、イベントに参加して友人を作り、それまで知らなかった世界を広げました。

ただ、養母たちがどうしても認知症が進んでぼや騒ぎを起こし、目が離せなくなるまででしたが。

いまでもはっきり覚えています、私が「もう会場に足を運べないならサイトを作ろう」とi Mac を買ったのは1999年5月3日です。(そこからサイトを立ち上げるのに丸5ヶ月かかりました・苦笑)
学生の頃かじった「液晶20行が精一杯」だったパソコンの世界はとんでもなく進歩を遂げていましたが、そこから「帰ってきた抜刀質店」が始まりました。(ググると出て来ます)
私は主に文章で身辺のことや思ったこと、養母達の青春時代のことを書き始めたのです。

事故や病気、養母達や父、義父の死と不幸が続き、とぎれとぎれではありますが(今回新刊出せませんでしたが)、このイベントは、可能な限り参加し続けたいです。
「可能な限り絵や文を書くこと」

これは私にとって、今現在「呼吸をするような」ことです。

もっと深く潜る「1冊の本を描きあげること」、これは脳と呼吸の、根気のいるリハビリですが。
来年も「江戸桜8」が開催されること、そこに漫画の新刊が出せたら、と、今は1年先の夢を見ています。