高橋健二さん風文体でケストナーを語る・22010年09月18日 21:43

わたしが読みはじめてさいしょに
「ああ、これはいけない」
と思っただいいちのきっかけは、ベルリンに住む「教授」君(彼はとても頭がよいので、生徒なのにみんなにそう呼ばれています。)が、高橋氏の訳では「ぼく」と名のっているのに、池田さん版では、「おれ」と自分を呼んでいることです。
たとえ原典でエーミールが「ぼく」、教授君が「おれ」と自分のことを呼んでいても、少年少女の小説では、かならず「非力だけれど頭脳派」のキャラクターは「自称:ぼく」なのです。それが日本のやくそくごとです!
やくそくごとは、たとえば志村けんさんがバカ殿を演じるときには顔を白く塗らなければならないように、大切なことです。

「エーミールと探偵たち」では、そのまえの「エーミールと探偵たち」では警笛だけを持っていたグスタフは、めでたいこことにそれにつけるオートバイ…いや、それをつけるオートバイを手に入れました。
しかし、新訳では「クラクションのグスタフ」です。
そうでしょうとも、2010年の日本では!
しかしわたしは先日免許証の更新に警察へ行き、「交通の教則」という、ちびまるこちゃんのイラスト入りのテキストをもらったのですが(更新料の印紙を買ったので、これももらったのではなく買わされたのかもしれません)日本の道路標識ではまだ「警笛鳴らせ」なのですよ。
ついでに言うなら、「自転車以外の軽車両交通不可」に、今は京都・太秦(うずまさ)の撮影村にしかないような「大八車」も描いてありますし「歩行者」は「つばつき帽子」か野球帽かリボン(子供だったら、です!)姿です。

「おなじみのピコロ(ホテルの見習いボーイ)は情けないことに「顔見知り」と紹介されています。

「火星君」にいたっては…「ディーンスターク」です!
「エーミールと探偵たち」であれほど重要な役柄だったにもかかわらず。いきなり外国語で「リスペクト」と「リストラ」と「リバイバル」のなかで悲しいのはどれ?と問われるようなものです。おおよそのカタカナの言葉には魂はこもっていません。(日本語で「言霊(ことだま)」と言います)彼の名前を「火星君」にしておけば、日本の少年少女は「火星という星がある」と心に刻めるのに。いつか萩尾望都先生の名作「スターレッド」にたどりつけるのに。もったいないことです。
「ディーンスターク」、これは大学でドイツ語を習う学生が単語帳に書き込んでおけばよい言葉です。(わたしは中学校からフランス語を10年間習いましたが、「火星」が男性名詞で「Le Mars・ル・マール」と呼ぶのだと言うことを、背後の辞書の山から今カンニングするまで知りませんでした。

池田さんはグスタフになにか恨みでもあるのでしょうか、小さいころよくにた男の子にいじめられた、とか。ただひとりの少女役ポニー・ヒューストヘンに口を利くのに、高橋氏は
「ぼくのオートバイはどうです?」
なのに
「ねえ、おれのマシンどう思う?」
と、急にガラが悪くなってしまいます。
「たいしたことじゃない」

「べつにどうってことねえよ」
です。
品位のある勇者を道ばたのチンピラにしてはいけません!
新しい訳者さんは、物語ぜんたいの品位よりも、それぞれのキャラクターをそれぞれちがった性格に「ばらす」のに熱心すぎです。たとえグスタフが全体のなかでは野性的な人物でも、ものには「ほどよいころあい」と「ものがたりぜんたいの品位への責任」があります。とくに後者は、飜訳する人には強く求められるものです。

もちろん高橋氏の訳でも、今では「銀行」というところを「貯蓄銀行」と言ったり、「サンドイッチ」が「バタパン」だったり「電気のドライヤー(頭髪乾燥機)」だったりジンが「ネズの実いりの火酒(ウォッカ)」だったりします。

たしかに言葉は目まぐるしく変化し、それについてゆくのに大人ですらおおわらわです。
しかし、品格のある言葉で、真剣に子どもたちに問いかけるとき、子どもたちは自分から「警笛」は「クラクション」のことだと発見するものです。

2冊の「エーミールと三人のふたご」を1章ずつ読み比べ、1962年(わたしが生まれた年です!)に出版された高橋氏の訳を、もしもわたしに子どもがいたら(残念ながらおりませんが。しかし一組しかふとんのないわがやでは、それでよいのかもしれません)かならず
「最初に高橋氏の全集を、時代の落差をおしえながら読んで聞かせ、それから岩波少年文庫を(子どもがそれをのぞむなら)あたえよう」
と思いました。

(ところで警察の交通教本は全国版です。同業者のさくらももこさんはいくら著作料をもらえたのでしょう?これも政府の事業しわけで「独占」のらくいんを押されていましたが!)