ばあや2009年12月08日 18:00

「ばあや 紅茶をいれてくれる?

 そう…
 クィーン・メリーがいいわ
 薄く切ったオレンジをつけて…

 それから わたしを
 ひとりにして…」

言わずと知れた(程ではないか?)美内すずえ先生の少女漫画「ガラスの仮面」の名場面である。なんと1976年から連載され、まだ続いている。
主人公・天才・北島マヤの宿命のライバル姫川あゆみさんが言うのであるが、これが今ちょっとブームで、松田奈緒子先生の、タイトルもズバリ「少女漫画」にも、グレゴリ青山先生の「マダムGの館」にも登場しているのであるが。
「オレンジを一切れ」って「牛肉・オレンジ輸入自由化1991年」の前のことよ。
(ちなみに私は「バナナ自由化」の1年前に生まれた。バナナは果物屋さんのガラスケースに鎮座まします尊いものだったのだ。なにせ夫の故郷のとなり村には「バナナ屋」という名の古いよろず屋さんまである位なのである。)

しかし「ばあや」はすごいね、なんてったって「ばあや」だもん。
乳母じゃないのよ、ベビーシッターと違って一生モンだもん。
「家政婦」でもないのよ「ハウスシッター」でもないの。生まれた時からずーっと「ばあや」なの。24時間(除く買い物)一緒のお屋敷にいるの。

ポッポー山首相んちにも、いるんだろうな。
んでもって、長男が
「お母様、新しい党を作りたいのでお小遣いを下さいポッポー」
というと、
「よろしくてよ由○夫ちゃん、あら邦○ちゃんもほしいのポッポー?
こればあや、じいや、ちょっと地下の金庫室に行ってきて頂戴ポッポー。」
ってな会話が・・・・
ホントにあったからどうしよう!(笑・ってる場合じゃないけど、なんだかな。)

奈良旅行記その1「ラストチャンス!」2009年12月10日 01:36

20〜30代初めまでは、よく母とふたり、奈良に年に一度の「正倉院展」を観に行ったもんである。
朝一番の新幹線に乗って、午前中に院展を観て、それから先は年ごとに、興福寺(八部衆と天灯鬼・竜灯鬼がお気に入り)、東大寺の大仏、秋篠寺、万葉植物園などに行って、夕方には帰る、という日帰り旅行である。足代は母が、お昼は私が春日ホテルでランチを、と、なんとなく決まっていた。
他に、私は「奈良団扇」(しなりが良くて軽い)」や「くずそうめん」晩ごはん用に「柿の葉寿司」酒のつまみに「柚巻き柿」、それに故・向田邦子が好んだ「吉野拾遺」という上等の葛湯などをお土産に買っていた。今はもう作り手が居なくなってしまったものも多い。

11月に「ふたり泊まりで奈良へ行ったら?」と勧めてくれたのはドッコイである。その旅費の出所は元公務員だった兄の「勤続何十年」だかでもらった旅行券である。ありがたや。

最初東京の上野で展示された「八部衆」(阿修羅像があまりに有名)は、博多へ行き、奈良に帰ってきた11月、ちょうど金堂が修復中なので仮金堂で、「本来はこんなふうに並べます」の配置で展示されていたので、「宝物館(ガラス越し)」に戻ってしまう前のラストチャンス!だったのだ。

初日昼間はもう十重二十重!「チケット買うのに2時間、拝観するのに4時間と聞いて中止。東大寺の、一の門の仁王像を(二の門より好き)じっくり楽しんで、
ふだんお世話になっている方々へのお土産の発送手配して、(つまり本人達より先に先方に着いちゃうワケね・笑)ホテルへ。

ふたりとも生まれて初めて「懐石料理」とゆーものを食べる。あまりの美味と凝った造りに「なんかいろいろすいませんね〜」と小市民ゆえ内心てれつつ・あやまりつつ、感動して食べる。母は病院以外のベッドに寝るのは初めて。私は明日の6時起きなんて退院以来。ふだんはドッコイの朝ご飯とお弁当作りに、朝5時半まで仮眠はとるけど、夜型なんだわさ。
さあ!そんな母娘、明日こそ興福寺へ一番乗りなるか!?

奈良旅行記その2「仏女と蛍光灯」2009年12月11日 10:55

翌日朝6時に起きて、ご飯食べた。洋風バイキングだったのだが、私はパワーが持続するようバナナを食べた。「バナナを1本食べると1里歩けるんじゃ」という、明治40年生まれの養母の信条である(笑)。
開門と同時に興福寺へ。ああ既にチケット獲得組がいて一番乗りならず。
ま、とにかく後について、混雑もなく、昔の配置、真ん中にそびえる釈迦如来坐像の真ん前に阿修羅。
ああ、八部衆が、十大弟子が、ガラス越しの1列並びではなく、四天王や薬上菩薩、薬王菩薩など大物の前に、まるで「けなげな少年十字軍」のように配置されている。
阿修羅は相変わらず、八部衆がサザエさんみたいにお膳を囲むときに茶碗3つで箸6本、断然優位そうである。
(が、きっと一膳は手足の残っていない五部浄に食べさせてあげるんだわ)
私の好きな緊那羅(きんなら)は左端にいる、あの角と額目の異形が好きなのよ。
頭にヘビ乗っけた子(名前覚えらんないのよ)がいたいけだわ、なんて澄んだまなざし、ふくよかな頬〜♪と楽しんでいると、前の20代後半くらいの女性2人連れが
「やっぱ上野は混んだよね〜」
「福岡もけっこう人いたし」
「私阿修羅サマの左向きのお顔すきだわ〜」
は?
日本中「阿修羅像」追っかけてるんですか!?こ、これが、「歴女(れきじょ)」(歴史、それも戦国時代の武将マニアの女性)に次ぐと言われる「仏女(ぶつじょ)」さんですか〜〜〜?
はまりすぎて尼寺で出家しちゃった人もいるという・・・・初遭遇だよ。
そういえば回りを見渡せば年寄りより若い衆、それもカップルか女性同士が多いではないか!

とりあえず興福寺は朝一番にたっぷり拝観できたので、ちょっと離れた法隆寺へ行きましょうということになった。
ここは戦争中、空爆を恐れて金堂の四壁画を模写、終戦後も傷みがひどいので模写は続いていたのだが、火事で焼失。それを復元させたのが、当時の名手と言われた4人の日本画家とそれに従う若手日本画家たち。このあいだ亡くなった平山郁夫さんは前田青邨(せいそん)先生の弟子で、修復に参加している。
それと安田靫彦先生。私はこの方の孫弟子にあたる。全然描いてないけどさ、日本画。
(苦笑)

なんだか係の人(ご年配)と話が盛り上がっちゃって、
「放水したら勢いで中央の仏さまのお顔が抜けて穴になっちゃったんでしたね。」
「ああ、ありゃひどいもんでしたなぁ。」
「民間で蛍光灯使ったのここが初めてですよね。」
「そう、あとは潜水艦だけ。ここで使ったのは今、東芝博物館に収蔵されてますよ。」
「あ、そうなんですか〜。ところで安田先生のお墓、分骨して法隆寺にあるって弟子だった養母から聞いたんですけど。そのお墓の記念文鎮(キレイな三重塔である)ウチにあって。」
「え?聞いてへんな、ちょと調べてみましょ。」

で、広い敷地内を夢殿まで参拝してきたら係のおじさんが追いかけてきて、
「やっぱりここにはないみたいです。」
って、分寺も多い法隆寺中探してくれたようで、ありがたかった。
養母の記憶違いであった。神奈川県大磯の本墓に、こんどお参りに行こう。

(まだ続く)

奈良旅行記その3「母、突如『旅』に目覚める」2009年12月12日 00:40

「今度は中尊寺行ってみたいわ。」
と母は新幹線京都駅内つけもの屋さんの、千枚漬け売り場の前でいきなり言い出した。
脚力はへなちょこな私よりはるかに上である。たぶん来年あたり、また旅するね、この勢いじゃ。

なにしろウチの一家は「泊まりがけ家族旅行」というものをほとんどしたことがない。法事で親戚んち行くついでに寄り道する位である。

両親とも東京生まれで、ふるさとというものがないので、父がいきなり「田舎を『作ろう!』。」と言い出して、当時まだ「離島ブーム」でも何でもなかった伊豆諸島の三宅(みやけ)島の、江戸末期の古民家を別荘に買った。(安かった)
傷んだところに手を入れて、春・夏・冬、休みは全部三宅島だったんである。
おかげで私は小学校〜大学を卒業して自分で金を稼げるようになるまで(画学生は2単位実習の連続のためアルバイトできない)修学旅行以外、別荘一本槍。
父が定年退職後「晴耕雨読の生活をしてみたい」と、いきなり島で農業を始めてしまったので、母は東京と三宅の往復で、新婚旅行(奈良・斑鳩)と法事の寄り道以外、「旅」というのをしたことがないのだ。父が倒れてから逝くまでのここ3年は介護でつきっきりだったし。

母・芳子さんの財布のひもが開けば、お供は当然私である。(母は古風な女性で、一人きりでは、食堂はおろかカフェにすら入れない。)その母が79才にして「旅」に目覚めたのだ。先日のCTスキャンとMRIで、脳にまったくどこにも傷みがないことが証明済み、健脚で好奇心旺盛な人であるからして、きっとあちこち行きたいところはあるだろう。
お供しましょうどこまでも。
足腰鍛えにゃ。

ところで「仏女」には後日談があるので、また続く。

奈良旅行記番外編「ああ、仏女!」2009年12月13日 03:59

歳末助け合いの回覧板が回ってきた。
この団地はどうも「助け合い」ではなく「財布の小銭の整理」と勘違いしている人が多いらしく、1円玉と5円玉だけの手応え(中は見えないから)である。
三宅島では一律500円と決まっていて、都会はせちがらいが地方は情けが厚いよ、まったくもう。

私は「あしながおじさん育英基金」には千円、歳末助け合いには500円、托鉢や社会鍋や、赤や緑の羽には100円と決めている。どこで遭遇するか分からないけど、であったらそうするのがマイルールである。
「あしながおじさん」にはおばちゃんならではの「くすぐり」があって、だいたい午後3時ごろともなると、疲れてだれているグループが必ずある。(私は午前中は眠っているので活動時間帯は午後である)駅前であるから、売店でのど飴買って、そんな3人(あれはなぜか3人一組なんだな)に
「はい、敢闘賞。終わったらみんなでなめてね。」
と渡すと、純な高校生は感動してくれるんである。顔色がパァッと明るくなって、「お願いしまーす」の声が元気になるよ。若いうちはこんな「おおっ!」も体験させてあげねばね。かすれた現代にゃね。

で、近所の駅前には、よく托鉢のお坊さんが立っている。
宗派関係なく100円入れて合掌して、
「よくなりますように(何が!?)」と祈ることにしているのだが。
先日合掌していたら、若い女の子の群れがどどどどどっと駆け寄ってきて、
「キャー、お坊様よ、お坊様ァ!!」
「一緒に写真撮っていいですかぁ!?」
お若い「仏女」のみなさまであった。(笑)
彼女達の撮った写真の片隅には、ピンぼけで私が写っているはずである。
Vサインのピチピチ女子校生とのツーショット、んなもん檀家に流れたらお坊さんも困ると思うのだが、これは逆セクハラにはならないのかな。まだ若い心清らなお坊さんは顔を赤くして、困惑しておったが.
人間ひとりあたり600ワットの熱量、ああ、3000ワットの試練である。


でもさ、古来民衆仏教ってこんなノリだったのかもしれない。
「仏女」は新ブームじゃなくて、リバイバルなのかも。
そんな事を考える「よくなりますように(だから何がっ!?)おばちゃん」であった。
来年のセンター入試、日本史ちょっと有利かも。(笑)

とんぷくいっちょう!2009年12月14日 00:05

ドッコイ(夫)からメールが来て3週間前に日本から送ったインシュリンが届いたという。ホッとした。
しかし歩いて5分の郵便局まで「取りに来い」という。
消印を見たら日本からは即日送られて、ちゃんとカンボジアに着いていたらしい。

援助する国も細やかな心配りが大切だが(今のアフガニスタンみたいにね)、援助される途上国にも「自助努力」が必要だなぁと実感。
太平洋戦争後の日本の立ち直りの速さったら!
おかげでこの3週間に、私が不安で飲んだ心臓のとんぷく薬の量ったら!

カンボジアではタイ式マッサージが格安らしい。
ふだん日本で満員電車と最終バスでいためつけられてる体を、思う存分揉みしだいてもらっていらっしゃい。

私はとんぷくの薬袋をようやっとしまった。
しかし長野へ帰省前にまた医者に行って処方してもらわにゃ。
前回ウナギ屋の座敷でおごってもらったうな重を、いきなり痙攣が始まって箸が持てなくて、結局こども用のスプーンとフォーク借りて食べちゃったからな。
お義父さんにもお義母さんにも、
「老後の介護は無理!あてになりません!使いものになりません!」
って、体が証明しちゃったからな。

これキーボードで叩いてる今も、指が引きつって、2時間かかってるもんな。

あー、まだるっこしい!!!!!!(トホホ・・・)

自分の体で換算すると、途上国の気持ちも分かっちゃうあたり・・・
ま、自助努力・自助努力、でゆっくり進むとしましょう。

ブログ2009年12月17日 00:45

ちょっとお休み。またすぐに復活します。

ホントに食べて欲しいの?2009年12月21日 22:00

そろそろ体が新しい薬になじんできました。ので予定より早く復活!
(まだ半分床の中なんですが、ええじゃろ。)

数週間前の夜、コンビニの帰り道、くらがりの中、ざっざかざっざか音がする。
よく見たら、イチョウ並木の落ち葉を掃いているレレレのおじさんであった。
(あ、もちろん着物じゃなくてジャンパーにジャージね。髪もあったし。)
イチョウの落ち葉というのはタチが悪い。
いっせいにドカッと散り積もるし、葉は油を含んですべるし、実は臭いし。
しかし臭い表皮と固〜いカラの中に鎮座ましますのは銀杏(ぎんなん)さま。
実をから煎りしてオリーブオイルに漬けて、寝る前3粒ほど食べると、冷え性にいい。もちろん、ちょっと塩して食べれば酒の肴として最高である。
ただし食べ過ぎると鼻血でるよ。

でも銀杏さまって、ホントに芽吹きたいのかね、臭くて固くて、あれはもう「アイスホッケーにおけるゴールキーパー」みたいなガードっぷりである。
栗、これも分からないね。イガに固い皮に渋皮、あんなにガード固いのに美味しいって、なんか矛盾してはいないか?あなたたち、ホントに食べて欲しいの?
私が許すのは「天津甘栗」くらいだが、これも最近はリヤカー売りや駅のガード下にいなくなってしまって、コンビニでは剥いたのを売ってる。

アホか〜!

あれは親指の先でパチンと割目を横に入れて、キュッと横をおさえて器用に剥いて、食すものだ。大釜の小石に混ぜて煎るときに黒蜜をたらすので、指先が黒くなって、なめればビタースウィートスよ。「からを剥く手間の楽しみ」が、ますます甘栗を美味しくするのに〜〜〜!
コラ、「栗むいちゃいました」って商標名、お楽しみを返せ〜!!(笑)

さて、イチョウの葉は、油のせいで堆肥にもならない嫌われものである。
昔だったら焚き火でおさつの1ッも焼けようが、いまや用途なしである。
だれかイチョウの油から健康商品でも美容クリームでも開発して下さい。
いつまでも「東大」のイメージだけじゃ、もったいないもんね。

母、「福山雅治」に目覚める!2009年12月22日 05:54

「なんだかね、CMの歌声聴いたら泣いちゃったの。」
「胸がキュン!となったの。」
「確さん(父)の声に似ていたの。」

お母さん、それは「ハマった」っていうんですよ。

で、CD屋になんぞ足を踏み入れたことのない母の代わりに探しに行きました。
売り切れでございました。注文票をもらって帰りました。
母、今年は紅白観るね。でもって、来年の大河は(主役だから)観るね。

来年の1月で80才の母。
「胸がキュン!となる」なんて、すばらしいことじゃないですか。
「好きになる力」がまだまだあるんだもん、若いなぁ。

カボチャは「時速2回転半」2009年12月23日 16:43

きのうは冬至だったのでゆず湯に入ってカボチャを食べた。
(こういったところ、さすが「おばちゃん」である。)
ゆず湯なんて、朝と晩、2回も入っちゃったわよ。
おかげでお肌すべすべ(笑)。

さて、カボチャの語源はカンボジアだそうな。
カンボジアからやって来た野菜だからなのだそうではあるが、今現在カンボジアに居るドッコイは
「カボチャ?ないよー。」
と言う。
常夏の国なのに。やっぱり雨期乾期の都合とかあるのかしらん。

その昔、長崎に渡来したカボチャの種が江戸に伝わるまでは2百3〜40年かかっていると知った。で、おひまな(作品が売れないので否が応でもおひま)貧乏人だった私は、地図帳と糸を引っ張りだして、陸沿いに長崎から江戸間での距離を測った。んでもって、当時のカボチャが直系19センチだったと仮定して、円周をもとめ、長崎からの距離を割って、「カボチャの時速」を求めたのである。
実際には、「隣の村とは土質が違うので実らない」とか、「船でショートカットしちゃいました」とか、あるにせよ。

「カボチャは平均時速2回転半で江戸に渡来している。」

私の脳みそは、生活の役にはほとんどたたず、そーゆーヒマなことを考えるために出来ているらしい。

カボチャがごろんごろん東海道を転がってゆく姿を想像すると楽しい。
いや、ま、それだけなんですが。